「紫原政文」の版間の差分

m
編集の要約なし
m編集の要約なし
師匠の中野から見て、競輪学校の在校競走成績順位が低かった(全生徒98名中63位)ということもあり、競輪選手として、このままでは恐らく大成しないだろうと考えていたという。
 
ところ、競輪学校の卒業式が終わり、他の生徒はその後地元へと戻る中、たまたま中野が、1988年の[[日本選手権競輪]]へ向けて、競輪学校で合宿練習に入っていたこともあり、紫原がじきじきに、「これからどうしましょう?」と中野に尋ねたところ、「いいからこのまま残って俺たちと一緒に合宿に入れ!」という指示を受け、その後1週間ほど中野らと共に練習を重ねたという。
 
ると、上述の通り、紫原は新人王を獲得したばかりでなく、現在もS級トップクラスの選手として活躍を続けているが、中野から見て劣等生だった紫原がこのよ うな活躍ができたのは、競輪学校卒業後も気を緩めることなく練習を続けてさえいれば、競輪選手になってから十分活躍できるということを証明したと述べてい る。
 
したがって師匠である中野もまた、努力することがいかに大事かということを、弟子の紫原の活躍を通じて改めて認識させられたという。