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'''織田 信友'''(おだ のぶとも、<!--[[永正]]13年([[1516年]])-->生年不詳 - [[天文 (元号)|天文]]24年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]([[1555年]][[5月10日]]))は[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[尾張国|尾張]]下四郡の[[守護代]]。大和守として知られる[[織田達勝]]の後継者。実父は織田因幡守とされるが不明。一説に伯父とされる[[織田敏定]]が養父になったという(『[[寛政重修諸家譜]]』)。[[諱]]は広信、また信豊とも。[[通称]]は彦五郎。尾張[[清洲城]]城主。
 
== 経歴 ==
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信秀の死後は[[織田信行]](信勝)の家督相続を支持し、信秀の後を継いだ[[織田信長]]と対立する。信長の家臣の[[鳴海城]]主[[山口教継]]の謀反に乗じ、[[萱津合戦]]を起こすも、[[守山城 (尾張国)|守山城]]の[[織田信光]]に支持された信長に敗れ、家臣坂井甚介を失う。さらに信長暗殺計画を企てたが、事前に斯波義統の家臣である簗田弥次右衛門に知られて、信長に密告されたために失敗し、家臣の那古野弥五郎の内通もあり、かえって清洲城に焼き討ちを受けるなど追い込まれていく。
 
天文23年([[1554年]])、信友は[[代官|小守護代]]と呼ばれた家老の[[坂井大膳]]と図り、守護斯波氏の家臣の大部分が義統の子の[[斯波義銀|義銀]]に従って城外に出かけた隙に義統を[[暗殺]]した。義銀は信長を頼り逃亡した。翌天文24年([[1555年]])、義銀を擁した信長の反撃を受けた信友は[[安食の戦い]]で敗れ、家臣河尻左馬丞、織田三位等も失う。生き残った重臣坂井大膳の進言により信光の調略をするも、かえって信光の謀略にかかり、ついに大膳は[[今川氏]]に逃亡した。信友自身は主殺しの咎によって信光に殺害された。
 
清洲織田氏は断絶、信行も[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])に信長に謀殺され、岩倉織田氏(織田伊勢守家)で尾張上四郡守護代の[[織田信安]]も子の[[織田信賢|信賢]]によって居城[[岩倉城]]から追放、信賢も[[永禄]]2年([[1559年]])に信長に降伏して追放、尾張は信長によって統一された。