「オットー・レーハーゲル」の版間の差分

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ドイツ西部[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]の工業都市[[エッセン]]で生まれる。[[第二次世界大戦]]後に父親を亡くし[[ギムナジウム]]卒業後はペンキ職人見習いを務めていた<ref name="レーハーゲル" >[http://kaze.shinshomap.info/series/doitsu/01.html 第1回 ギリシャに奇跡をもたらせた男 ― オットー・レーハーゲル] - 連想出版がつくるWEBマガジン[KAZE]風</ref>。一方で地元のサッカークラブの[[TuSヘレネ・アルテネッセン]]や[[ロートヴァイス・エッセン]]で[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]としてプレーを続け、1960年には西ドイツ五輪代表に選出され、一定の評価を得た<ref name="レーハーゲル" />。1963年に[[ブンデスリーガ]]が創設されると[[ヘルタ・ベルリン]]とプロ契約を結びレギュラーとして活躍。1965年に[[1.FCカイザースラウテルン|カイザースラウテルン]]に移籍した後、膝の怪我のため[[1972年]]に現役を引退した。ブンデスリーガ通算201試合に出場22得点を記録した。
 
選手キャリアの晩年に差し掛かった頃から指導者を目指して[[ドイツ体育大学ケルン]]サッカー指導者養成コースで学び1970年にライセンスを取得。1974-75シーズンに[[キッカーズ・オッフェンバッハ]]の監督に就任したのを皮切りに監督として数クラブの指揮を執ったが、[[ボルシア・ドルトムント]]時代の1977-78シーズンの[[ボルシア・メンヒェングラートバッハ]]戦では0-12と大敗([[:de:FusballspielFußballspiel Borussia MonchengladbachMönchengladbach ? Borussia Dortmund am 29. April 1978]])を喫するなど多くの結果を残す事は出来ずにいた<ref name="レーハーゲル" />。
 
1981年に[[ヴェルダー・ブレーメン]]の監督に就任。有能な若手選手やベテラン選手を集めて常に優勝を争えるチームへと育て上げた<ref name="レーハーゲル" />。1995年に監督を退任するまでの14シーズンの長きに渡って指揮を執り、ブンデスリーガ優勝2回(1987-88シーズン、1994-95シーズン)、[[UEFAカップウィナーズカップ]]優勝1回(1991-92シーズン)を成し遂げるなど監督としての評価を高めていった<ref name="レーハーゲル" />。