「カルロス2世 (スペイン王)」の版間の差分

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[[ファイル:Juan Carreno de Miranda 023.jpg|thumb|カルロス2世]]
'''カルロス2世'''('''Carlos II''', [[1661年]][[11月6日]] - [[1700年]][[11月1日]])は、[[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン・アブスブルゴ(ハプスブルク)家]]最後の国王(在位:[[1665年]] - 1700年)。[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]と[[マリアナ・デ・アウストリア|マリアナ]]王妃の息子である。[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]妃[[マリー・テレーズ・ドートリッシュ|マリア・テレサ]]は異母姉、[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]の最初の皇后[[マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ|マルガリータ・テレサ]]は同母姉に当たる。
 
== 生涯 ==
=== 精神疾患 ===
カルロス2世はスペイン王であるとともに、[[ナポリ王国]]、[[シチリア王国]]などの[[イタリア]]のほぼ全土の王であった。スペインの海外領土である[[フィリピン]]や[[メキシコ]]にも勢力を及ぼした。スペイン・ハプスブルク家最後の男子であり、彼の出生をスペイン国民は喜んだ。しかし、出生時から病弱な人物であり、当時その理由は「呪いをかけられたため」と一般に考えられており、カルロス2世自身もそう思っていた。現在では、彼が病弱だった理由はおそらく[[ハプスブルク家]]の何重もの[[近親結婚]]<ref>父母は伯父と姪の関係であり、また父フェリペ4世の妹マリア・アナはカルロス2世にとって叔母であると同時に祖母でもある。曾祖父フェリペ2世も伯父と姪の結婚。詳細は系図を参照。</ref>であろうと考えられている。
 
カルロス2世は[[先端巨大症]]のため、咀嚼に影響があり、常によだれをたらしていた。他にも[[てんかん]]等いくつかの病気を患っていたと推測されている。また[[知的障害]]もあったらしく、特に幼少期には衣服を身につけた動物のようであり、教育らしい教育をすることも困難であったという。
 
=== 支配 ===
当時のスペイン経済は停滞しており、土地も痩せていたために飢饉もあった。スペインの地方領主の力も非常に弱くなっていた。カルロス2世の不適当なスペイン支配はしばしば諸外国(特に[[フランス王国|フランス]])に影響した。
 
カルロス2世の母マリアナが長い間摂政を行ったが、マリアナが追放されると異母兄の[[フアン・ホセ・デ・アウストリア|オニャテ伯フアン・デ・アウストリア]]([[1677年]]から[[1679年]]まで宰相を務めた)が実権を握った。1679年にはマリアナが宮廷に戻り、再び摂政となった。[[ガスパール・デ・グスマン|オリバーレス公伯爵]]の権力が大きくなると、スペインの国力は次第に衰弱していった。[[1668年]]にポルトガルが北アフリカの飛び地([[セウタ]])をスペインに割譲したが、それはかつて60年以上ハプスブルク家の支配が続いたポルトガルにとっては小さな出来事であった。[[スペイン異端審問]]では[[1680年]]に160人が宗教裁判所で裁かれ、21人が火刑されている。カルロス2世の数少ない政治活動として、スペインの宗教裁判所を調べ、調査のためにJunta Magna(大きな会議)を作ったとされている。しかし、[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]が王位に就いた際に記録を差し出すよう要求したにもかかわらず、記録は何故か見つからなかった。
 
=== 結婚・一族 ===
1679年には[[オルレアン家|オルレアン公]][[フィリップ1世 (オルレアン公)|フィリップ]]([[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の弟)の娘[[マリー・ルイーズ・ドルレアン|マリア・ルイサ]]と結婚した。しかしカルロス2世は性的には不能だったと推測され、子供を作ることが出来なかった。マリア・ルイサは[[1689年]]に27歳で死去した。カルロス2世は後添いとして[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[フィリップ・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|フィリップ・ヴィルヘルム]]の娘[[マリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルク|マリア・アナ]]を娶ったが、この結婚も成功ではなかった。やがてカルロス2世の[[精神障害]]の症状は悪化し、先妻の遺骸を掘り起こして手元に置くなどの奇行が始まる。こうした奇行を自殺願望の現れ(但し[[カトリック教会|カトリック教徒]]として自殺は出来なかった)と見る歴史家も居る。
 
後継者を迎える必要から、[[1698年]]に[[続柄#大甥|又甥]]に当たる[[ヨーゼフ・フェルディナント (アストゥリアス公)|ヨーゼフ・フェルディナント]](母方の叔父の[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]と同母姉[[マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ|マルガリータ・テレサ]]の孫)を[[アストゥリアス公]]に叙爵したが、翌[[1699年]]に夭折した。他の継承者候補にはヨーゼフ・フェルディナントと同じく又甥に当たるアンジュー公フィリップ(後の[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]、ルイ14世と異母姉[[マリー・テレーズ・ドートリッシュ|マリア・テレサ]]の孫)と、母方の従弟に当たるカール大公(後の[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]、レオポルト1世の次男)がいた。
 
1700年、カルロス2世はスペイン王位をアンジュー公フィリップに譲ると表明して死亡し、スペイン・ハプスブルク家は断絶した。[[1701年]]2月にルイ14世は[[高等法院 (フランス)|パリ高等法院]]にスペイン王位継承権執行を命令する。以後、[[スペイン・ブルボン朝]]は現代の[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]の時代まで続くスペイン王家となった。
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| rowspan="8" align="center"| '''カルロス2世'''
| rowspan="4" align="center"| '''父:'''<br />[[フェリペ4世 (スペイン王)]]
| rowspan="2" align="center"| '''祖父:'''<br />[[フェリペ3世 (スペイン王)]]
| align="center"| '''曽祖父:'''<br />[[フェリペ2世 (スペイン王)]]
|-
| align="center"| '''曽祖母:'''<br />[[アナ・デ・アウストリア]][1]
|-
| rowspan="2" align="center"| '''祖母:'''<br />[[マルガレーテ・フォン・エスターライヒ (スペイン王妃)|マルガリータ・デ・アウストリア]][5]
| align="center"| '''曽祖父:'''<br />[[カール2世 (オーストリア大公)]][2]
|-
| align="center"| '''曽祖母:'''<br />マリア・アンナ・フォン・バイエルン[3]
|-
| rowspan="4" align="center"| '''母:'''<br />[[マリアナ・デ・アウストリア]]
| rowspan="2" align="center"| '''祖父:'''<br />[[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)]]
| align="center"| '''曽祖父:'''<br />[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)]]
|-
| align="center"| '''曽祖母:'''<br />マリア・アンナ・フォン・バイエルン[4]
|-
| rowspan="2" align="center"| '''祖母:'''<br />[[マリア・アナ・デ・アウストリア]]
| align="center"| '''曽祖父:'''<br />[[フェリペ3世 (スペイン王)]]
|-
| align="center"|'''曽祖母:'''<br />[[マルガレーテ・フォン・エスターライヒ (スペイン王妃)|オーストリア大公女マルガレーテ]][5]
|}
# オーストリア大公女アンナは、[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]と[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]の妹の間の娘。
# カール2世は、[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)]]の弟で[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]の父。
# カール2世妃マリア・アンナは、[[バイエルン|バイエルン公]][[アルブレヒト5世 (バイエルン公)|アルブレヒト5世]]とカール2世の姉[[アンナ・フォン・エスターライヒ (バイエルン公妃)|アンナ]]の間の娘。
# フェルディナント2世妃マリア・アンナは、アルブレヒト5世の息子バイエルン公[[ヴィルヘルム5世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム5世]]の娘。
# フェルディナント2世とオーストリア大公女マルガレーテは兄妹。
*詳細な家系図は[[:en:Image:Carlos segundo80.png]]を参照。