「ジョセフ・フォン・スタンバーグ」の版間の差分

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映画は音の出る[[トーキー]]時代を迎え、[[ドイツ]]の大[[プロデューサー]]、[[エーリッヒ・ポマー]]は、ドイツ映画界最初のトーキー映画として『[[嘆きの天使]]』(1930)の監督に、ドイツ在住経験のあるスタンバーグに白羽の矢を立てた。世間知らずの真面目な高校教師([[エミール・ヤニングス]])が[[キャバレー]]のダンサーのローラローラ([[マルレーネ・ディートリッヒ]])の色香の虜になり、日参するが、学校を追われ、旅興行の道化役者となり、最後は捨てられた死体が高校の教室に転がる。スタンバーグを代表する傑作で、まさに退廃的な美貌と脚線美の新人の女優ディートリッヒと手を携えてハリウッドに戻った。
 
パラマウントは[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]の[[グレタ・ガルボ]]に対抗すべく、切り札としてディートリッヒを売り出した。片道切符で砂漠に流れた酒場女を描いた『[[モロッコ (映画)|モロッコ]]』(1930)はスタンバーグとのコンビの名声を確実にした。その後戦争未亡人がスパイとして銃殺される『[[間諜X27]]』(1931)、動乱の中国に舞台を置いた『[[上海特急]]』(1932)、家庭と愛人との板挟み『[[ブロンド・ヴィナス]]』(1932)、女王の一代記『[[恋のページェント]]』(1934)。それぞれの作品では舞台も役柄も異なるがスタンバーグが独特の映像美の中にディートリッヒをいかに引き立たせることに専念していたことは誰の目にも明らかであった。このような監督と女優との結びつきは映画史上例を見なかった。『[[西班牙狂曲]]』(1935)を最後にスキャンダル化した愛も破れ(彼は別に生涯3回結婚と離婚を繰り返した)、このコンビは解消したのであった。『モロッコ』と『上海特急』で[[アカデミー監督賞]]にノミネートされている。
 
1930年代後半以降、会社との意見の相違も多く、作品は思うにまかせなかった。気力と精根を使い果たした彼は、名声を失い、急速に衰えてしまったのである。これは、まさに「ハリウッド」の神話の一つである。
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*[[上海特急]] -''Shanghai Express'' (1932)
*[[ブロンド・ヴィナス]] -''Blonde Venus'' (1932)
*スペイン[[西班牙狂想曲]] -''The Devil Is a Woman'' (1934) - 監督・製作・撮影
*恋のページェント -''The Scarlet Empress'' (1934) - 監督・脚本
*罪と罰 -''Crime and Punishment'' (1935)