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hangeul=제주 4•3 항쟁|
hanja=濟州 4•3 抗爭|
hiragana=さいしゅう よんさん こうそう|
katakana=チェジュ サ サム ハンジェン|
alphabet-type=[[英語]]|
alphabet=Jeju massacre|
}}
[[ファイル:済州島.png|thumb|400px|済州島(1948(1948年9月以降の地図)]]
[[ファイル:Halla06.JPG|thumb|250px|済州島4・3事件の現場となった[[済州島]]]]
 
'''済州島四・三事件'''(さいしゅうとうよんさんじけん)は、[[1948年]][[4月3日]]に[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁]]支配下にある[[南朝鮮]](現在の[[大韓民国]])の[[済州島]]で起こった島民の蜂起にともない、[[南朝鮮国防警備隊]]、[[韓国軍]]、[[韓国警察]]、朝鮮半島本土の右翼青年団などが[[1954年]][[9月21日]]までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す<ref name=fujinaga>[http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/introduction.htm 済州島四・三事件と私たち] 大阪産業大学藤永壯教授HP</ref>。
 
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== 概要 ==
[[1945年]][[9月2日]]に[[日本]]が[[連合国_(第二次世界大戦)|連合国]]に降伏すると、[[朝鮮半島]]は[[アメリカ軍]]と[[ソビエト連邦軍]]([[赤軍]])によって[[緯度|北緯]][[38度線]]で南北分割占領され、[[軍政]]が敷かれた。この占領統治の間に、南部には親米の[[李承晩]]政権、北部には抗日[[パルチザン]](を称する)[[金日成]]の[[北朝鮮労働党]]政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつあった。1945年[[9月10日]]、[[朝鮮建国準備委員会]]支部が済州島にも創設され、まもなく、[[済州島人民委員会]]と改められた<ref name=fujinaga/>。[[1947年]][[3月1日]]、済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた<ref name=fujinaga/>。この事件を機に3月10日、抗議の全島[[ゼネラルストライキ|ゼネスト]]が決行された。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や右翼青年団を済州島に送り込み、[[白色テロ]]が行われるようになった。
 
特に島外から送り込まれた[[反共主義|反共]]を掲げる右翼青年団体、西北青年会は島民に対する弾圧を重ね、警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図った。しかし、島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こした<ref name=fujinaga/>。
 
[[1948年]]に入ると、南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。その中で、<!--選挙妨害が発生する。済州島では数千人規模の浸透武装勢力が島民を強制徴募して「人民遊撃隊」を組織しテロを行った。-->単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起の日付が[[4月3日]]である。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。
 
事件当初は交渉による平和的解決が試みられたが、アメリカ軍の介入と北部・[[平安道]]から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体(「西北青年団」)の妨害などで交渉は決裂し、流血事態に至った。蜂起は朝鮮国防警備隊(後の[[韓国軍]])や警察、および西北青年団などの治安部隊によって短期間で鎮圧された。人民遊撃隊の残存勢力は[[ゲリラ]]戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。これは、[[8月15日]]の[[大韓民国]]成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出し、数週間に渡って[[輪姦]]した後に殺害した<ref name=newsweek20000619p2>{{cite news
| url = http://www.newsweek.com/id/85131/page/2
| title = Ghosts Of Cheju A Korean Island's Bloody Rebellion Sheds New Light On The Origin Of The War (page2)
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}}</ref>。1948年9月に金日成は[[朝鮮人民軍]]を創設し、続いて朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。<!--当初から武力による強制統一を考えていた金は、南部のパルチザンに蜂起するよう呼びかけていた。-->
 
[[1950年]]に南北朝鮮労働党が合同し、金日成の[[朝鮮民主主義人民共和国]]が韓国(本土)に侵攻([[朝鮮戦争]])すると、[[朝鮮労働党]]党員狩りは熾烈さを極め、[[1954年]][[9月21日]]までに3万人が、完全に鎮圧された[[1957年]]までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。また、韓国本土で[[保導連盟事件]]が起きると本土と同様に[[刑務所]]で1200人が殺害された<ref name=Hankyoreh20090303>{{cite news
| url = http://english.hani.co.kr/arti/english_edition/e_national/341888.html
| title = Truth commission confirms Korean War killings by soldiers and police
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}}</ref>。
 
歴史的に流刑地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。[[韓国併合]]後、[[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]]の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び[[日本]]などへ避難あるいは密入国し、そのまま[[在日韓国・朝鮮人|在日コリアン]]となった人々も多い。日本へ逃れた島民の一部は[[大阪]]にコミュニティーを建設した。済州島では事件前(1948年)に28万人<ref name="Mun_2005">文京洙 (2005) 69頁。</ref>いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる<ref>[http://www.st.thomas.ac.jp/library/LINKFILE_1/Library_news200805.pdf 地域でつくる平和と共生フォーラム] 2008年5月[[聖トマス大学]]図書館ニュース{{リンク切れ|date=2010年4月}}</ref>。
 
朝鮮労働党が関係しているとされる上、犠牲者が余りにも多く、「反共」を[[国是]]に掲げ、独裁国家であった韓国では責任の追及が公的になされていない。また事件を語ることはタブー視されてきたため、事件の詳細は未解明である。[[21世紀]]になって、[[大統領 (大韓民国)|韓国大統領]]となった[[盧武鉉]]は、自国の歴史清算事業を進め、[[2003年]]10月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪した。また、[[済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復委員会]]を設置している。さらに[[2006年]]同日の犠牲者慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪するとともに、事件の真相解明を宣言した<ref>{{cite news
|url = http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/04/04/20060404000007.html
|title = 【済州4.3事件】盧大統領、慰霊祭に出席・謝罪