「アドルフ・ドゥエイ」の版間の差分

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== 生涯 ==
===ドイツの革命===
ドゥエイは、4歳で既に父親から読み書き計算を教えられた。彼はアルテンブルクのギムナジウムに学び、その後奨学金を得て、[[ライプチッツィヒ大学]]で、神学、哲学、と歴史を学んだ。1841年、彼は数年にわたる遊学の旅に出、[[バルト海]]を渡って、[[エストニア]]に赴き、そこで私講師として働いた。この当時、彼は[[ドルパト大学]]でヘーゲル哲学に関する論文で、文献学の博士の学位を取得している。彼はもっぱら独学で学んできたが、かなり知識は偏りがあり、世界文学や自然科学、博物学についてはほとんど知識は皆無で、[[ゲーテ]]の『[[ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代]]』の中の「教育州」についてをよく読んでいたくらいにとどまった。教育思想家では、[[フリードリッヒ・ディースターヴェーク]]に傾倒していた。
 
1846年になって初めて、彼は故郷のアルテンブルクに戻ってくる。この間に彼は結婚し、結婚生活も既に3年を経過していた。故郷で彼は自ら私立学校を新しいスタイルで設立、それを指導して成功を収めた。これは古典的な教育内容から離れ、自然科学や近代語の教育を優先しようとするものであった。
 
彼は、ドイツの[[3月革命前]]の運動に参加し、様々な雑誌に記事を書き、革命の目標に賛同を表明し、ザクセン・アルテンブルク広告の共和派の指導者の一人となった。彼の1851年の著作『社会主義のABC』(''Das ABC des Sozialismus'')で彼は、[[フリードリッヒ・フレーベル|フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フレーベル]](1782年 - 1852年) の教育的見解に強く依拠した立場をとった。その革命的で社会主義的な係わりからドゥエイは、少なくとも5回にわたり裁判にかけられ、また2度もの逮捕を経験している。その結果、1年間の懲役と職業の禁止を宣告されている。釈放後、彼は多数の知識人と自由思想家とともにアメリカのテキサスに移住した。これについては、48年組([[:en:Forty-Eighters]])を参考のこと。
 
 
===アメリカでジャーナリスト、教育者として===
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