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[[ファイル:Pelliotcave2.jpg|thumb|right200px|敦煌の[[莫高窟]]蔵経洞で文書・経典などを調査するポール・ペリオ(30歳)。]]
'''ポール・ペリオ'''('''Paul Pelliot''', [[1878年]][[5月28日]]~ - [[1945年]][[10月26日]])は[[フランス]]の著名な東洋学者で、[[中央アジア]]の[[探検家]]である。有名な[[敦煌文献]]をフランスに将来した。
 
== 初期の活躍 ==
ペリオは[[パリ]]に生まれ、[[コレージュ・ド・フランス]]の東洋学者[[シルヴァン・レヴィ]] ([[w:Sylvain Levy|Sylvain Levy]]) に学び、[[仏領インドシナ]]の[[ハノイ]]にある[[フランス極東学院]]に就職、学院の図書館のために漢籍を購入するため[[1900年]]に[[北京市|北京]]へ派遣された。そこで[[義和団事件]]に巻き込まれ、包囲された北京の外国公館地域に止まった。包囲戦の中でペリオは2度敵地に潜入した。1度は敵の軍旗を奪うため、2度目は包囲された人々のために新鮮な果物を得るためである。その勇敢さによって[[レジオンドヌール勲章]]を授与されている。その後、ハノイに戻り、22歳で極東学院の中国語教授となった。
 
ペリオは[[パリ]]に生まれ、[[コレージュ・ド・フランス]]の東洋学者[[シルヴァン・レヴィ]] [[w:Sylvain Levy|Sylvain Levy]] に学び、[[仏領インドシナ]]の[[ハノイ]]にある[[フランス極東学院]]に就職、学院の図書館のために漢籍を購入するため[[1900年]]に[[北京市|北京]]へ派遣された。そこで[[義和団事件]]に巻き込まれ、包囲された北京の外国公館地域に止まった。包囲戦の中でペリオは2度敵地に潜入した。1度は敵の軍旗を奪うため、2度目は包囲された人々のために新鮮な果物を得るためである。その勇敢さによって[[レジオンドヌール勲章]]を授与されている。その後、ハノイに戻り、22歳で極東学院の中国語教授となった。
 
== 中央アジア探検 ==
[[1906年]][[6月17日]]ペリオは軍医のルイ・ヴェランと写真家のシャルル・ヌエットとともに[[パリ]]を出発して中央アジア探検に向かった。3人は鉄道で[[モスクワ]]から[[タシケント]]赴き、そこから中国領[[トルキスタン]]に入った。探検隊は8月末に[[カシュガル]]に到着し、[[ロシア]]総領事館に滞在した。中国の官憲はペリオの流暢な中国語に驚き、探検準備のためにさまざまな便宜を図ってくれた。探検隊はトゥムチュクを経て[[クチャ]]に入り、そこで失われた[[クチャ語]]で書かれた文書を発見した。この文書は後にペリオの師であるシルヴェイン・レヴィによって解読されることになる。
 
[[1906年]][[6月17日]]ペリオは軍医のルイ・ヴェランと写真家のシャルル・ヌエットとともに[[パリ]]を出発して中央アジア探検に向かった。3人は鉄道で[[モスクワ]]から[[タシケント]]の赴き、そこから中国領[[トルキスタン]]に入った。探検隊は8月末に[[カシュガル]]に到着し、[[ロシア]]総領事館に滞在した。中国の官憲はペリオの流暢な中国語に驚き、探検準備のためにさまざまな便宜を図ってくれた。探検隊はトゥムチュクを経て[[クチャ]]に入り、そこで失われた[[クチャ語]]で書かれた文書を発見した。この文書は後にペリオの師であるシルヴェイン・レヴィによって解読されることになる。
 
探検隊はさらに[[ウルムチ]]滞在中、[[敦煌市|敦煌]]出土の[[法華経]]古写本を見て、敦煌に赴いた。
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== その後 ==
一行は[[1909年]][[10月24日]]パリに帰着したが、意外にも[[エドゥアール・シャヴァンヌ]]ら極東学院の同僚たちから、公金を浪費して偽造文書を持ち帰ったと激しい非難を浴びた。彼らはすで英国のオーレル・スタインが[[敦煌文書]]を持ち去った後には何も残されていなかったと考えていたからである。しかし[[1912年]]にオーレル・スタインが探検旅行記を出版し、敦煌にはまだ大量の文書が残されていたと公表したため、ペリオの疑惑は晴れた。
 
その後、「[[莫高窟|敦煌千仏洞]]」など多くの研究書を発表して東洋学に大きな影響を与え、[[第一次世界大戦]]中はフランス武官として[[北京市|北京]]に滞在し、[[1945年]]にパリで[[悪性腫瘍|ガン]]のため死去した。「ペリオがいなければ、[[中国学]]は孤児のままだっただろう」とさえ、評価されている。パリの[[ギメ美術館]]にはペリオにちなんだギャラリーがあり、彼が将来した文書の多くは[[フランス国立図書館]]に保存されている。
一行は[[1909年]][[10月24日]]パリに帰着したが、意外にも[[エドゥアール・シャヴァンヌ]]ら極東学院の同僚たちから、公金を浪費して偽造文書を持ち帰ったと激しい非難を浴びた。彼らはすでに英国のオーレル・スタインが[[敦煌文書]]を持ち去った後には何も残されていなかったと考えていたからである。しかし[[1912年]]にオーレル・スタイン卿が探検旅行記を出版し、敦煌にはまだ大量の文書が残されていたと公表したため、ペリオの疑惑は晴れた。
 
その後、「[[莫高窟|敦煌千仏洞]]」など多くの研究書を発表して東洋学に大きな影響を与え、[[第一次世界大戦]]中はフランス武官として[[北京市|北京]]に滞在し、[[1945年]]にパリで[[悪性腫瘍|ガン]]のため死去した。「ペリオがいなければ、[[中国学]]は孤児のままだっただろう」とさえ、評価されている。パリの[[ギメ美術館]]にはペリオにちなんだギャラリーがあり、彼が将来した文書の多くは[[フランス国立図書館]]に保存されている。
 
== 日本語文献 ==
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*[http://idp.bl.uk/pages/collections_fr.a4d フランス所蔵敦煌文献](英語)
 
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[[Category:フランスの学者]]
[[Category:フランスの探検家]]