「枢密院 (中国)」の版間の差分

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==唐代から五代十国==
唐代の枢密院は「内枢密使」と称され[[宦官]]が任命される役職であった。宦官が枢密使の職責を掌握した状態はそ以前から存在した、[[憲宗 (唐)|憲宗]]の時代に設置された。設立当初は独自の署を有せず、当初は皇帝軍隊宰相等癒着大臣要因間の伝送を担当した。そのため宦官の政治介入に有利な性格を有し、後代にななると宰相と共に朝政に深く関与するようになった。また[[穆宗 (唐)|穆宗]]以降になる皇帝の廃立にも容喙するようになっ批判され、いる。[[朱全忠]]が唐を滅ぼし[[後梁]]を建国するとこれを廃止、改めて'''崇政院'''(すうせいいん)を設置し官人を任命、ま独自の官署が設置されている。[[後唐]]が後梁を滅ぼすと、唐制の多くが復活したが、枢密使は再設置されず、崇政院を「枢密院」と改称しその機能を維持した。
 
==宋代==