「枢密院 (中国)」の版間の差分

 
==宋代==
宋代の枢密院は軍政地位がまり行機関とされ、民政を管轄する[[中書省]]と並んで「二府」と称され、枢密使を長、知た。枢密院事・枢密副使を次官の主要職責として要職の多く文官が占めた。文官統制により有力な将用兵、辺境警備、令及び密令影響力を抑制する面では成功したが発布後代では軍事知識に疎い文官が邦治の補助とされ皇帝轄の禁隊をも枢密院の指揮することなく、自らが策定した軍事行動を一方的前線部隊に厳守させ置かれ。枢密院は宰相ともに朝政の中枢実際の軍事作戦ありともおける指揮対等な関係支障をきたし、周辺諸国に圧迫さ置かる一因となった。中央官制において、枢密使は[[宰相や三省官平章事]]の1等下、[[参知政事]]の同格とみなされて両方様に皇帝へ直接稟奏する権利合わせ有し「執政」とも称した。
 
枢密院の長官は枢密使(知枢密院事とも)と、副長官は枢密副使(同知枢密院事とも)と称され文官が任命された。その下に武官による都承旨及び副都承旨が設置された。またそれ以外には定員のない編修官が設置された。中央官制において、枢密使は[[同平章事]]の1等下、[[参知政事]]の同格とみなされて両方を合わせて「執政」とも称した。
 
枢密使は唐代までは軍事情報や機密情報の管理に関する職務に限定されていたが、宋代になると軍政最高機関にまで権限が強化されたことで権力の集中が発生、過度な権力集中を改称すべく[[1083年]]([[元豊 (宋)|元豊]]6年)には[[神宗 (宋)|神宗]]により枢密院廃止の建議が出されたが実施されるに至っていない。その後は中書省との対立関係が生じるようになり、[[遼]]の進出に対して主戦論を唱える中書省に対し、枢密院は講和論を主張し国論の統一に失敗、[[徽宗]]及び[[高宗]]が遼軍の捕虜となる事態([[靖康の変]])を招き宋軍は瓦解するに至った。
 
南宋が成立すると再び宋軍が編成され、その際には枢密院は設置されずに[[御営司]]が設置されたgば、[[1130年]]([[建炎]]4年)に再設置されている。
 
==元代==
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