「清水宗治」の版間の差分

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備中の一[[豪族]]の家臣の身分で備中[[清水城]]の城主を務め、のちに[[高松城 (備中国)|高松城]]の城主となる。この経緯については諸説あるが、一般的には天正の[[備中兵乱]]の際、三村氏譜代・石川氏の娘婿・重臣の立場にでありながら毛利氏に加担し、高松城主の地位を得たとされる。この備中兵乱は文字通り備中一円を舞台とした三村氏対毛利氏の一大戦で、三村氏家臣の立場でありながら毛利方についた者は他にもおり、状況判断の問題であった([[三村親成]]など三村姓を名乗る三村一門でさえ、毛利方についた者がいる)。また、[[永禄]]8年([[1565年]])に三村氏譜代の石川氏を裏切って高松城を奪取し、直接毛利氏に臣従して城主となったとの説もあるが、当時の毛利氏は備中を三村氏に任せる間接支配の体制を採っていたため、この説は信じ難い(備中方の資料にあたっても挙証に足るものはない)。いずれにせよ、[[毛利氏]]の家臣となって以後は[[小早川隆景]]の配下として毛利氏の[[中国地方]]の平定に従軍し、忠誠心厚く精励し、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。
 
天正10年(1582年)、統一政策を進める[[織田信長]]の家臣[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[中国攻め]]を行うと、宗治は高松城に籠城して抗戦する。秀吉は降伏すれば備中国を与えるという条件を出したが、宗治は応じなかったと言われている。そのため、[[黒田孝高]]が策した水攻めにあって城は落城寸前に追い込まれる。この水攻めの最中の6月に京都で[[本能寺の変]]が起こって信長が死去し、その報を知った秀吉は宗治の切腹を条件に城兵を助命する講和を呼びかけ、宗治は信長の死を知らぬまま、その数日後に兄の月清らとともに水上で切腹した。享年45。
 
秀吉は信長の敵討ちのために一刻も早く京へと戻りたいところであったが、「名将・清水宗治の最期を見届けるまでは」と陣から一歩も動かなかったといわれている。また、後に小早川隆景に会った秀吉は「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したという。