「フリードリヒ・フレーベル」の版間の差分

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以後、バンベルクの山林局で[[書記]]、測量師の助手、[[貴族]]の農場での会計など職を転々とし、1805年アントン・グルーナーの紹介でフランクフルト・アム・マインの模範学校の教師になる。このとき彼は23歳であった。学校教師になった後、1805年8月イヴェルドンにペスタロッチを訪ね、彼の実践と思想に強く影響を受け、1808年から2年間ペスタロッチのもとに滞在。
 
[[1811年]][[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]に入学、翌年ベルリンに転じる。1813-14年、ドイツ解放戦争には義勇軍の一兵士として参加、従軍中に生涯の協力者ミッテンドルフとランゲタールを得る。1816年、チューリンゲンのグリースハイムに学校を開き、翌年、この学校はカイルハウに移され、「一般ドイツ教育舎」と改称される。1826年には主著『人の教育』を刊行する。
 
彼はまず[[ロマン主義]]の立場から、子供の本質を神的なものとして捉え、この児童観に基づいて受動的、追随的な教育を主張した。園丁が植物の本性に従って、水や肥料をやり、日照や温度を配慮し、また剪定するように、教育者も子供の本質に追随的に、その無傷の展開を保護し、助成するように働きかけなければならないとされ、そこから彼のKindergarten―幼稚園(子供達の庭)という名称が生まれた。