「インノケンティウス12世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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{{ infobox 教皇
[[ファイル:Pope Innocent XII.jpg|right|180px|インノケンティウス12世]]
| 日本語名 = インノケンティウス12世
'''インノケンティウス12世'''(Innocentius XII,[[1615年]][[3月13日]] - [[1700年]][[9月27日]])は[[ローマ教皇]](在位、[[1691年]] - 1700年)。本名は'''アントニウス・ピニャッテリー'''(Antonio Pignatelli)。清廉潔白な人柄で贅沢を嫌い、中世以来のカトリック教会の悪習であった親族登用主義と聖職売買の根絶を目指した。
| タイトル = 第242代 ローマ教皇
| 画像 = [[ファイル:Pope Innocent XII.jpg|right|180px150px|インノケンティウス12世]]
| 画像説明 =
| 就任 = 1691年7月12日
| 離任 = 1700年9月27日
| 先代 = [[アレクサンデル8世 (ローマ教皇)|アレクサンデル8世]]
| 次代 = [[クレメンス11世 (ローマ教皇)|クレメンス11世]]
| 司祭 =
| 司教 =
| その他 =
| 本名 = Antonio Pignatelli
| 生年月日 = 1615年3月13日
| 生地 = {{ITA}}、[[スピナッツォーラ]]
| 没年月日 = 1700年9月27日
| 没地 = {{ITA}}、[[ローマ]]
| 埋葬地 =
| 原国籍 =
| 宗派 =
| 居住地 =
| 親 =
| 妻 =
| 子 =
| 母校 =
| 署名 =
| 曖昧 = インノケンティウス
}}
 
'''インノケンティウス12世'''(Innocentius XII,[[1615年]][[3月13日]] - [[1700年]][[9月27日]])は[[教皇|ローマ教皇]](在位[[1691年]] - 1700年)。本名は'''アントニウス・ピニャ'''(Antonio Pignatelli)。清廉潔白な人柄で贅沢を嫌い、中世以来のカトリック教会の悪習であった親族登用主義と聖職売買の根絶を目指した。
 
== 生涯 ==
[[ナポリ]]の名家の出身であるピニャテッリは[[ローマ]]の[[イエズス会]]のコレジオで学んだ。20代にして教皇[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]のそばで働くようになり、以降の教皇たちに仕えて、教皇大使として[[フィレンツェ]]、[[ウィーン]]、[[ワルシャワ]]などへ赴任した。[[インノケンティウス11世 (ローマ教皇)|インノケンティウス11世]]の時代の[[1681年]]に[[枢機卿]]にあげられ、[[ナポリ]][[大司教]]になった。教皇[[アレクサンデル8世 (ローマ教皇)|アレクサンデル8世]]没後の[[コンクラーヴェ|教皇選挙]]では[[神聖ローマ帝国]]と[[フランス王国|フランス]]2つの枢機卿団がもめたため、双方の妥協の結果としてピニャテッリが教皇に選ばれた。
 
[[1691年]][[7月12日]]、教皇インノケンティウス12世を名乗ったピニャテッリはインノケンティウス11世の精神を継承して教皇庁の綱紀粛正に乗り出した。そのためには中世を通じてカトリック教会にはびこっていた2つの悪習、[[縁故主義|ネポティズム]](親族登用)と[[シモニア]](聖職売買)の根絶が必要だと考えた。[[1692年]]の勅書「ロマーヌム・デチェット・ポンティフィチェム」(Romanum decet Pontificem)において教皇が親族に財産や土地、利益を与えることの禁止を明文化した。それだけでなく親族の中で枢機卿にあげることができるのは一人だけとした。また、聖職売買の原因が奢侈にあると考え、教皇庁と高位聖職者たちの生活を質素にすることを目指した。彼は教皇が莫大な富を持つことと親族を大量に登用することが当たり前だった前任者たちと自分を比べて「私の親戚は貧しさだよ」といっていた。
 
このような教皇庁の風紀の一新だけでなく、教皇領全体の改革を推進した。裁判や法治がきちんとおこなわれるための「インノケンティウスのフォーラム」(Forum Innocentianum)を設置している。[[1693年]]には[[ガリカニスム]]の論議に関して4人のフランス人[[枢機卿]]を追放している。フランス教会の教皇権からの自立性を唱えるガリカニスムの精神は[[1682年]]の「ガリカニスム四か条」によってはっきりと宣言されていた。[[1699年]]にはジャック・ベニン・ボセーとフェヌロンの間で起きた静寂主義をめぐる論争では後者の行き過ぎを批判して、前者を是としている。
 
彼の教皇在位中は、神聖ローマ帝国との関係でてんてこまいだった前任者たちと違いフランスとの折衝に力をいれた点できわだっている。この徳に秀で自制心の強かった教皇は1700年9月27日に惜しまれつつこの世を去った。
 
{{ローマ教皇|第242代: 1691年 - 1700年}}
 
[[Category:教皇|いんのけんていうす12]]