「間人皇女」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
8行目:
:金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか
:: 繫於金木 吾飼駒當無出兮 吾之駒至今何以為所獲
皇女が夫である天皇を離れ葛城皇子と共に飛鳥に遷った理由は明らかでない。しかし、上の歌の「駒」が間人を譬喩しており、古代の「見る」が恋愛と直結するものであることから、自分の妻をほかの男に見られたの意に理解し、中大兄との[[近親相姦]]の関係を説く[[吉永登]]のような見解もあり、[[直木孝次郎]]らによって支持されているが、これに対しては[[倉岑]]・[[荒井秀規]]らによる反論があり、荒井は「穿ちすぎであろう」と疑義を示している。
 
『万葉集』に「[[中皇命]](「なかつすめらみこと」の訓が一般的)」とある人物が間人皇女のことを指すのではないかとする説が[[荷田春満]]以来あり、[[土屋文明]]などによって広く支持されている。さらに「中皇命」の号をもって、母・斉明の崩後に葛城皇子が即位する環境が整うまでの中継ぎとして一時的に皇位に就いていたとする説が[[押部佳周]]・[[小林敏男]]らによって展開されているが、『万葉集』の註には斉明天皇作との旨が記されているなどの異伝も見られ、必ずしも確証があるわけではない。斉明天皇を中皇命とする説も沢潟久孝をはじめすくなくない。なお、中皇命については中大兄そのひとを指すのではないかとする[[東野治之]]や[[大平聡]]らの説も近年提出されている。