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'''池宮 彰一郎'''(いけみや しょういちろう、[[1923年]][[5月16日]] - [[2007年]][[5月6日]])は、[[日本]]の[[脚本家]]、[[小説家]]。本名の'''池上 金男'''(いけがみ かねお)で脚本家として活動、『[[十三人の刺客]]』など数多くの映画・テレビドラマの制作に関わった。1992年に小説『[[四十七人の刺客]]』を発表して以降、池宮彰一郎のペンネームを用いて[[歴史小説]]を著したが、[[司馬遼太郎]]作品との「類似」問題により活動をほぼ停止した。死してなお、作品の盗作問題と関連して引き合いに出されることが多い。
 
戦記作家の[[池上司]]は息子。
 
== 経歴 ==
[[東京府]]に生まれる。[[静岡県]][[沼津市]]に育つ。ち、静岡県立沼津商業学校(現・[[静岡県立沼津商業高等学校]])業する
 
[[第二次世界大]]中は[[満州]]で[[大日本帝国陸軍|陸軍]]に徴兵される。兵舎に放火して[[南方軍 (日本軍)|南方]]送りとなり、[[ペリリュー島]]逆上陸作戦に参加、3000名いた部隊で生き残ったのは20~30名だったという。その後、[[台湾]]に引き上げる際も輸送船が撃沈され、またもや生還率1%の中で生き残った。
 
戦後、[[三村伸太郎]]の師事を経て、映画脚本家となる。本名で脚本を書き、『[[十三人の刺客]]』『[[大殺陣]]』で京都市民映画脚本賞を受賞する。
 
[[1992年]]、69歳の時に池宮彰一郎として執筆した、小説家としては随分遅いデビューをはたした『[[四十七人の刺客]]』で[[新田次郎文学賞]]を受賞する。[[1999年]]、『[[島津奔る]]』で[[柴田錬三郎賞]]を受賞したする。脚本作家である経歴を生かし、特に戦争や戦闘のシーンにおいて軽妙で迫力のある文章を得意として人気を博した。
 
[[司馬遼太郎]]の事を深く尊敬しており、口演にて「日本の小説は[[私小説]]が主体であったが、司馬遼太郎の歴史小説は大河的であり、日本の小説の流れを変えた作家であった」との内容を述べている。また、「歴史小説はそれまでの[[歴史考証]]にとらわれ過ぎてもならないし、逆に歴史を全く無視してもならない」と述べ、独自の歴史考証を行うことで新感覚の歴史小説を作っ生み出していた。
 
『四十七人の刺客』では大胆な考証を多数織り交ぜ、映画化を果たしたこともあり話題となった。例えば、江戸の町は治安のため、夜間は町ごとに門を設けて通行できないようにしてあった。当然[[四十七士]]は移動のための工夫が必要であったはずで、池宮は大胆にも水路の移動が最も合理的であると判断し、作中でそのように描いた。
 
作品全体を見れば、独自の視点を沢山盛り込んでおり、クリエイティブな作家であったが、デビュー当初ですでに老齢でもあり、以下のような盗作疑惑を招くが持ち上がることとなってしまう
 
;盗作疑惑
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== 受賞歴 ==
脚本家・池上金男としての受賞
* 1963年 [[京都市民映画祭]]脚本賞
* 1992年 [[シナリオ功労賞]]([[日本シナリオ作家協会]])
小説家・池宮彰一郎としての受賞
* 1992年 『四十七人の刺客』で第12回[[新田次郎文学賞]]
* 1999年 『島津奔る』で第12回[[柴田錬三郎賞]]
 
== 主要作品 ==