「シモン・ド・モンフォール」の版間の差分

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シモンは[[1230年]]にイングランドに渡って、[[1239年]]に[[レスター]]伯となった。はじめは[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]の寵臣として重用され、その妹エリノアを妻として与えられるほどであったが、[[1248年]]に[[フランス]]の[[ガスコーニュ]]における統治に失敗してヘンリー3世の信頼を失い、対立するようになる。
 
シモンはヘンリー3世が失政を続けるのを見て、ヘンリー3世に反発する貴族を糾合して挙兵し、[[1258年]]に王権制限と貴族による国政監督組織を作ることを定めた[[オックスフォード条項]]を認めさせた。しかし[[1261年]]、力を盛り返したヘンリー3世がこの条例を一方的に破棄して再び王権強化を図ったため、[[1263年]]にシモンは再び挙兵([[第2次バロン戦争]])して、[[1265年]]にはヘンリー3世とその弟[[リチャード (コーンウォール伯)|コーンウォール伯リチャード]]を捕らえて戦いに勝利し、イングランドの実権を握るにいたった。そして、イングランドの諸侯や聖職者、騎士から都市の代表などによる議会を召集して政治改革を行なおうとした。
 
これが、現在におけるイギリス議会の基礎となったのである。しかしシモンが召集した議会は寄せ集めに過ぎず、貴族の一部からシモンに権力が集中することを恐れた一派がヘンリー3世の子・[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]と通じて反乱を起こしたため、シモンはこの鎮圧に向かったが、イーヴシャムの戦いでエドワード1世の反撃を受けて戦死したのである。