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Tajima73 (会話 | 投稿記録)
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武田信玄が花菱を好んで用いたことは事実であるが、由来から見れば定紋はやはり武田菱なので、訂正。
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=== 武田菱 ===
'''武田菱'''は、甲州武田家の家紋(定紋、正式な家紋)である。'''室町幕府の公式家紋集'''である『見聞諸家紋』には、
[[武田菱]]は、甲州武田家の家紋である。由緒書きによると、武田家の家宝「楯無」の鎧は[[神功皇后]]が[[三韓征伐]]の時に[[住吉大社]]に[[武運長久]]を祈念し得た鎧であり、ゆえあって甲州武田家の所有するところとなった(無論三韓征伐云々の伝記は時代的に合わないので史実ではない)。その鎧に付いていた「花菱」の文様を武田氏の定紋としたという。武田氏の遺品や肖像に残る家紋は皆この「花菱」である。戦国時代軍旗に「花菱」を多数描くのが煩雑なため、菱形を4つ合わせた「四つ割菱」という略紋が生まれたという。ただし由来には諸説あり武田の田の字を元にデザインされたとも言われている。江戸時代以降、甲陽流軍学者が信玄の肖像画を珍重し、その中や浮世絵などに盛んに「四つ割菱」の図柄が描かれてしまったために、「四つ割菱」が定紋であるかと思われがちであるが本来の紋は「花菱」である。旧甲斐国の山梨県では、[[甲府駅]]から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。
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「頼義男新羅三郎義光の末孫也。従四位下。伊予守鎮守府将軍。童名千手丸。永承五年。後冷泉院依勅。奥州安倍頼時攻。是時詣住吉社。新平復夷賊。干時有神託。賜旗一流。鎧一領。昔神功皇后征三韓用也。神功皇后鎧脇楯者。住吉之御子香良大明神之鎧袖也。此裙之紋。'''割菱'''也。三韓皈国後。鎮座於摂津国住吉。以奉納干寳殿矣。今依霊神之感応。干源頼義賜之。可謂希代也。頼義三男新羅三郎義光雖為季子。依父鐘愛伝之。即旗楯無是也。旗者白地無紋。鎧有松皮菱。故義光末裔当家為紋。」
</blockquote>
[[武田菱]]は、甲州武田家の家紋である。由緒書きによるとつまり、武田家の家宝「楯無」の鎧は[[神功皇后]]が[[三韓征伐]]の時に[[住吉大社]]に[[武運長久]]を祈念し得た鎧であり、ゆえあって甲州武田家の所有するところとなった(無論三韓征伐云々の伝記は時代的に合わないので史実ではない)。その鎧に付いていた「菱」の文様を武田氏の定紋としたという。武田氏の遺品や肖像に残る家紋は皆この「花菱」である。戦国時代軍旗に「花菱」を多数描くのが煩雑なため、菱形を4つ合わせた「四つ割菱」という略紋が生まれたという。ただし由来には諸説あり武田のの字を元にデザインされたとも言われている。江戸時代以降、甲陽流軍学者が信玄の肖像画を珍重し、その中や浮世絵などに盛んに「四つ割菱」の図柄が描かれてしまったために、「四つ割菱」が定紋であるかと思われがちであるが本来の紋は「花菱」である。旧甲斐国の山梨県では、[[甲府駅]]から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。
 
== 系譜 ==