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ローマが侵出する前、この地域は[[ケルト人|ケルト]]系の部族がいくつか居住する地域で、南方の[[地中海]]の小島および沿岸部では[[フェニキア人]]が活動を行っていた。また、この地域は[[ワイン]]、[[オリーブ]]、そしてローマでは「[[ガルム]]」と呼ばれた[[魚醤]]の産地で、古くから地中海世界では非常に重要な地域でもあった。
 
[[第一次ポエニ戦争]]後、[[ハミルカル・バルカ]]が[[カルタゴ]]を後にしてカルタゴ・ノウァ(現:[[カルタヘナ_(スペイン)|カルタヘナ]])を建設。この頃よりローマもギリシア人の植民市などと同盟を結ぶなどその影響力を伸ばしつつあり、カルタゴとの関係が緊張する。[[紀元前226年]]には[[エブロ川]]を境に相互不可侵条約を結ぶが、[[紀元前218年]]、[[ハンニバル]]がサグントゥム(現:[[サグント]])を攻撃、[[第二次ポエニ戦争]]が始まった。そしてハンニバルは軍を率いて[[アルプス山脈]]を越えて[[イタリア半島]]へ侵攻、この地域の統治は弟[[ハスドルバル]]に任された。
 
ハンニバルがイタリア半島内で戦っている頃、この地域は逆にローマ軍の攻勢を受けて劣勢になり、[[紀元前209年]]、[[スキピオ・アフリカヌス]]によってカルタゴ・ノウァは陥落。[[紀元前207年]]にハスドルバルは[[メタウルスの戦い]]で戦死した。