「石田一松」の版間の差分

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== 生涯・人物 ==
===生い立ち===
[[広島県]]安芸郡府中村字山田(現在の[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[府中町]])生まれ。3歳で実母とは生き別れて、その後4人の[[継母]]に育てられた。うち3人の継母から虐められこれを耐え抜いたという。父は井戸堀職人で、その後米相場で失敗。一松は苦学して[[広島市]]の私立明道中学に学ぶ。明道中学は当時、[[広島市]]中心部田中町に在り[[修道中学校・修道高等学校|修道中学]]、[[広陵高等学校 (広島県)|広陵中学]]と並ぶ広島市の私立三中と言われたが、硬骨蛮風の校風が遠因で[[1923年]]廃校になったと言われている。他の出身者には[[黒島亀人]]、[[西村伊作]]ら<ref>この他、[[駿台予備学校]]の創立者・[[山崎寿春]]が教頭として在籍([http://www.sundai.ac.jp/ayumi/chp11.htm 1.創立者・山崎寿春 - ようこそ駿台ホームページへ])。</ref>。同校角力部([[相撲]]部)に所属、「明道のイシ」と呼ばれ22、3人の沖仲士(人夫)と大喧嘩し同校を退校。悪い評判が広がり広島に居られなくなり、「にいちゃん、どこにゆくんの、よそ行つちゃいけんよ、行つちゃいけん、行つちゃいけんいけん」と末妹に泣きつかれ、後を追って来るのを振り切って上京した。[[三等車]]の隅っこに乗り「俺をボンクラ扱ひにして、廣島の奴等、今に見て居れ、絶対に見返してやるけん」と心に誓った。この後、残った石田一家も府中に居られず、[[広島市]]内の[[紙屋町・八丁堀|橋本町]](現在の[[中区 (広島市)|中区]])に転居。[[1945年]]の[[広島市への原子爆弾投下|原爆投下]]で、爆心地から僅か1キロのこの家で、末妹を含めて[[兄弟]][[姉妹]]の3人は皆死んだ。府中に居たままならば[[原爆]]には遭わなかっただろうといわれる。この死別が政治家を志すきっかけとなった。
 
===演歌師===