「大村益次郎」の版間の差分

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[[ファイル:大村益次郎2919.JPG|thumb|200px|大村益次郎遭難之碑 京都市中京区木屋町御池上ル]]
[[ファイル:Shozan Sakuma monument.jpg|thumb|200px|遭難之碑の道標(京都市)]]
このように着々と既成事実を構築していた明治2年(1869年)9)大村は軍事施設視察と建設予定地下見のため京阪方面に出張する。すでに大村にたいするテロの危険性があり、これを憂慮した木戸孝允の反対を振り切っての仕事であった。そして、9月4日、大村は京都[[三条]][[木屋町]]上ルの旅館で[[刺客]][[団伸二郎]]、[[神代直人]]らに襲われ重傷を負った。兇徒が所持していた「斬奸状」には、大村襲撃の理由が、兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあった。大村は一命をとりとめたが重傷で、山口藩邸に移送され、数日間の治療を受けた後、大坂の病院(後の[[独立行政法人国立病院機構大阪南医療センター|国立大阪病院]])に転院され、[[楠本いね]]の看護や、蘭医[[アントニウス・ボードウィン|ボードウィン]]による左大腿部切断手術を受けるが、11月5日容態が悪化し死去した。享年46。
 
墓所は[[山口市]][[鋳銭司村|鋳銭司]]にあり、[[靖国神社]]にも合祀されている。明治21年([[1888年]])孫([[養子]]の[[嫡男]])の[[大村寛人]]は益次郎の功により[[子爵]]を授爵、[[華族]]に列せられた。