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はじめ[[東郷実明]]に[[示現流]]を学び、次いで[[薬丸兼義]]に[[薬丸自顕流]]を学んだ。薬丸自顕流の伝承では道場破りに来たものの[[大山綱良]]に敗れて入門したとなっているが(伊藤政夫 編「野太刀自顕流-薬丸流-」)、俊斎は当時わずか15歳であり、史実かどうかは不明。
[[嘉永]]2年([[1849]]年)薩摩藩の内紛([[お由羅騒動]])に巻き込まれた有村父子は一時藩を追われ家は貧困の極みに陥るが、[[嘉永]]4年([[1851]]年)、新藩主[[島津斉彬]]によって藩に復帰、このとき俊斉は西郷吉之助(のち[[西郷隆盛]])、大久保一蔵(のち[[大久保利通]])、伊地知龍右衛門(のち[[伊地知正治]])、吉井幸輔(のち[[吉井友実]])らと「[[精忠組]]」を結成、幕政改革や日本の近代化を考えるようになった。[[嘉永]]5年([[1852]]年)樺山三円(のち[[樺山資之]])とともに江戸藩邸に勤め、多くの勤王家と知り合う。
尊王の志高く[[江戸]]では[[小石川]]の[[水戸藩]]邸に出入りし、水戸の両田として名高い、[[藤田東湖]]、[[戸田忠太夫]]に師事した。[[万延]]元年([[1860年]])、三弟・[[有村次左衛門]]が[[大老]]の[[井伊直弼]]を桜田門外にて水戸浪士とともに襲撃。この際、次弟である[[有村雄助|雄助]]が幕府に遠慮した藩の意向で、鹿児島にて母、大久保利通ら精忠組の面々の立ち会いの下、自刃している。[[西郷隆盛]]と共に僧侶・[[月照]]を保護して帰国した。
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