「里見義弘」の版間の差分

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このため、里見氏の勢力は一時、衰退したが3年後の永禄10年([[1567年]])、義弘は[[三船山の戦い]]で北条軍を撃破して勢力を挽回し、[[上総国|上総]][[佐貫城]]を本拠地として安房から[[上総]]、[[下総]]にかけて一大領国体制を築き上げ、里見氏の最盛期を築き上げたのである。
 
天正5(1577)年、これまでの態度を一転、北条家と和を結んだ。
 
天正6年(1578年)、上杉謙信の後を追うように[[久留里城]]にて急死した。だが、遺言に弟(庶長子ともいわれる)・[[里見義頼|義頼]]と嫡男・[[里見淳泰|梅王丸]]への領土分割を命じた事から、死後に里見氏の分裂を招く事になった。