「コルチュラ島」の版間の差分

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1284年にローマ教皇[[マルチヌス4世]]が、1286年に[[ホノリウス4世 (ローマ教皇)|ホノリウス4世]]が[[ラグーサ共和国]][[大司教]]に対し文書を書いた後、大司教はペータルを[[ストン]](ペリェシャツ半島の町)及びコルチュラ[[司教]]に据えた。1291年、コルチュラ司教として、イヴァン・クルチッチ(Ivan Kručić)がコルチュラの町にいた。イヴァンは自身の上位聖職者にあたり、自分の教会領に含まれるストンと連合したがっていたフヴァル大司教と競った。1300年、教皇[[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]は最終的に、ドゥブロヴニクにある[[ラグーサ大司教座]]の下にコルチュラ司教座を創設した。1333年、ラグーサ共和国が[[セルビア帝国]]からストンとペリェシャツを購入したことから、ストンにある半島を統括する[[カトリック教会]]の宗主権はコルチュラ司教座へ与えられた。
 
ハンガリー王国が島の支配権を回復したあとの1396年12月、ハンガリー王ジグムンド(のちの[[神聖ローマ皇帝]][[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]])はゼタ公国のバルシッチ([[:en:Balšić]])朝の公ジュラジ2世([[:en:Đurađ II Stracimirović|Đurađ II Stracimirović]])へ島を贈った。ゼタ公国の支配は、ジュラジ2世の死ぬ1403年まで続き、その後ハンガリー王の下へ主権は返された。1409年、再びヴェネツィア共和国の一部に組み込まれ、1413年から1417年の間は近隣の[[ラグーサ共和国|ドゥヴロヴニク共和国]]に購入された。1420年、島はまだヴェネツィアに支配されることを明言した。1571年、ヴェネツィアが[[レパントの海戦]]で[[オスマントルコ帝国]]海軍に対し堂々と共和国を防衛した。1776年から1797年まで、コルチュラ(当時イタリア語名クルツォラ)は、この地域のヴェネツィアの主要な要塞化兵器庫として、フヴァル島(イタリア語名レシナ)の後を引き継いだ。1797年の[[カンポ・フォルミオ条約]]でヴェネツィア共和国の領土はフランス共和国と[[ハプスブルク家]]の間で分割され、コルチュラはハプスブルク家のものとなった。
 
1806年、[[フランス第一帝政|フランス帝国]]が島を侵略し、[[イリュリア州]](帝政期の行政区画、Provinces illyriennes)に併合した。セルビア帝国建国を描いていた[[モンテネグロ]]の[[主教公]][[ペータル1世ニェゴシュ]]([[:en:Petar I Petrović Njegoš|Peter I Njegoš]])は、[[ロシア帝国]]海軍の援助を受けて1807年島を征服した。しかし、周辺国からの圧力で島は1815年にオーストリア帝国へ返還が決められ、それによって島はダルマチアのオーストリア直轄地の一部になった。1867年から、コルチュラは[[オーストリア=ハンガリー帝国]]のチスレイタニア([[:en:Cisleithania|Cisleithanian]])の一部となった。