「フランツ・シャルク」の版間の差分

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==生涯==
シャルクは、19世紀末期から20世紀初頭に活躍した生粋のオーストリア・ィーンの指揮者である。兄は、[[ピアニスト]]の[[ヨーゼフ・シャルク]]。兄弟揃って[[ウィーン楽友協会|ィーン楽友協会音楽院]]で[[アントン・ブルックナー]]に従事し[[指揮 (音楽)|指揮法]]と[[作曲学]]を学ぶ。
 
後にシャルクがブルックナーの一般普及を目差し改変した版が知られている。19世紀末期はブルックナーの音楽に対する拒絶反応が強く更に認知度も低く曲自体が冗長過ぎるとの批判を受けていたため、スコアを短縮や[[編曲]]したものを公刊(シャルク版)した。現代においてシャルク版は、原典版を無視した改悪との批判を受けているが、前述の通り、当時の状況に合わせてシャルクなりにブルックナーを普及させようと思ってやった事である。
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[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[リヒャルト・シュトラウス]]等の作品の演奏を得意とした反面、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]等の[[現代音楽]]は不得意で観客の評判も芳しくなかったと伝えられている。
 
シャルクは、リヒャルト・シュトラウスと共に[[ウィーン国立歌劇場|ヴィーン国立歌劇場]]総監督を務めたが、両者の性格は水と油ほど異なり、やがて犬猿の間柄から喧嘩別れの様にしてシュトラウスが去っていたと伝えられている。
 
指揮者[[ブルーノ・ワルター]]は、自伝の中でシャルクを最初は常に薄笑いを浮かべ正体不明で何を考えているのか全く理解が出来なかった人物だとしながらも、[[ザルツブルク]]で或る席で同席したのがきっかけで意気投合し、その後、ィーン国立歌劇場に対するシャルク自身の犠牲を顧ぬ献身的態度や、晩年に於ける芸術的成長に就いて並々ならぬ高評価を与えており、晩年のシャルクが病に倒れ重態に陥り指揮台に立てなくなった際に、ザルツブルクでの指揮をワルターに依頼するほど親密な仲に発展したという。
 
==業績==