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このうち現在もっとも行われているのは宝暦12年に二代目菊之丞が踊ったものである。この菊之丞の『鷺娘』は初演以降、興行において上演が戸絶えていたが、[[明治]]19年([[1886年]])の[[新富座]]で、『月雪花三組杯觴』(つきゆきはなみつぐみさかづき)の雪の部に[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]が復活し、「新鷺娘」から曲の一部を援用するなどして現行演出の基礎を作った。
 
現行での内容は、まず冬景色の舞台面に鷺の精が現れる。その格好は白無垢の振袖に黒の帯、頭には[[綿帽子]]を被り傘をさし、鳥の所作などを見せたあと衣裳を引き抜き華やかな振袖の娘姿となり、傘を使って踊ったり恋の口説を見せるなどする。しかしやがて鳥の本性が現れ、畜生ゆえにに味わう地獄の責め苦のさまを見せて幕となる。ただし鷺娘が最後のほうで地獄の責め苦を激しく表現するのは、[[バレエ]]の『[[瀕死の白鳥]]』の影響を受けているという。<ref>「もうひとつ、たとえば『鷺娘』についても異見があるんです今のじゃ、もとの『鷺娘』が判らないんですよ。今のは九代目團十郎が上演した時に新しいものを入れて、あの形にしたわけです。ところがね、あたしの家にある、三代目三津五郎のやった『鷺娘』を見るとね、責めがないんです(以下略)」(『歌舞伎をつくる』147頁より[[坂東三津五郎 (8代目)|八代目坂東三津五郎]]の言)。八代目三津五郎はこのあと更続けてよれば、鷺が最後に死ぬような踊りになったのは『瀕死の白鳥』の影響であり、それも[[大正]]以降のことだという。三代目三津五郎と四代目歌右衛門が踊った鷺娘の歌詞を見るとたしかに責め苦を現わしたものにはなっていない。また九代目團十郎所演の時も、最後は[[三段]]に上がり撞木を振り上げて見得をするだけだったという(『歌舞伎をつくる』147頁以降より)。</ref>
 
==注==