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[[歌劇]]などの劇音楽を作曲の中心とし、25歳のときの歌劇『[[真珠採り]]』でオペラ作曲家の地位を確立する。その後フランス人の作家[[アルフォンス・ドーデ]]の劇『[[アルルの女]]』の付随音楽や、歌劇『[[カルメン (オペラ)|カルメン]]』などを作曲したが、1875年3月にパリの[[オペラ=コミック座]]で行われた『カルメン』の初演は、ヒロインが女性労働者だったこともあり失敗に終わった。ヒロインの声域をそれまでに一般的だった[[ソプラノ]]ではなく[[メゾソプラノ]]に設定したことも新しさの一つだった。
 
[[1869年]]にビゼーは師アレヴィの娘であるジュヌヴィエヴ・アレヴィと結婚した。師は既に1864(1864年に亡くなっていた。『カルメン』初演の約3ヵ月後である[[1875年]][[6月3日]]、[[敗血症]]のため36歳と7ケ月の若さで世を去るしたが、のちにビゼーの音楽は世界的に認められるようになった。
 
{{要出典範囲|なお妻のジュヌヴィエヴは後にビゼーとの間の息子のジャックを連れて、[[ロスチャイルド家|ロスチャイルド財閥]]の顧問弁護士であるユダヤ人エミール・ストロースと再婚し、花形サロンを形成した。ジャックの学友の[[マルセル・プルースト]]が後に自分の小説『[[失われた時を求めて]]』のなかで彼女をモデルとしてゲルマント公爵夫人を造形した。|date=2010年3月}}