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Scatman T (会話 | 投稿記録)
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== 経歴 ==
52歳で歌手としてメジャーCDデビュー。
52歳で歌手としてメジャーCDデビュー。メジャーデビューアルバム『Scatman's World』は日本やヨーロッパ諸国など全世界で600万枚以上を売り上げ、各国のチャートでNo.1を飾る。自身の障害である[[吃音症]]を逆手に取った、模倣が困難な[[スキャット]]と、1回に4つ近く音の調子を変えるという珍しい歌唱法(このテクニックは古い[[ヒンドゥー教]]の喉で歌う物から取り入れた)を用い、唯一のジャンル『テクノスキャット』を開拓した。
 
52歳で歌手としてメジャーCDデビュー。メジャーデビューアルバム『Scatman's World』は日本やヨーロッパ諸国など全世界で600万枚以上を売り上げ、各国のチャートでNo.1を飾る。自身の障害である[[吃音症]]を逆手に取った、模倣が困難な[[スキャット]]と、1回に4つ近く音の調子を変えるという珍しい歌唱法(このテクニックは古い[[ヒンドゥー教]]の喉で歌う物から取り入れた)を用い、唯一のジャンル『テクノスキャット』を開拓した。
== 吃音者としての経歴 ==
 
== 吃音者としての経歴<ref name="a"> Listen to the Scatmanの解説より</ref> <ref>[http://www2m.biglobe.ne.jp/~genyukai/scatman.html スキャットマン・ジョン氏に聞く ]</ref>==
彼は[[吃音]]から来るストレスをごまかす為[[アルコール]]や[[ドラッグ]]に溺れて行くようになる。
 
しかし、ある日、仲間のミュージシャンや友人のジョー・フェラルが[[ドラッグ]]により死亡してしまう。
これを期に彼はそれらから抜け出す事を決意し、再婚した妻、ジュディの助けもあり更生に成功する。

後に彼は「自分がアルコールに依存していることを認めることによって、そこから回復出来た」と語っている。
1987年の事である。

しかし、これらを克服した事により彼は[[吃音]]と向き合わざる得なってしまう。
 
そこで彼は1991年頃から、アメリカの吃音者団体『NSP(National Stuttering Project )』のミーティングに参加するようになり、徐々に自身を[[吃音者]]と認める事が出来るようになったと語っている。
 
尚、スキャットマンとしてデビューした後も、NSPの全国大会で演奏する等、親睦は深かった模様。
 
だが、吃音が完全に直った訳では無く、デビュー当初の1995年にインタビューしたジャーナリストが「少なくとも6回か7回は語句を繰り返さないと、喋り終えることができなかった」と 語っている。
 
しかし、その後、コンサートの為に世界を周った彼の言葉は以前よりも流暢になり、アルバムのプロモーションのためインタビューを受けた際、彼がどもる事なく喋っていたのを聴いたある記者が、「経歴を装うため吃音者コミュニティーを利用しているのではないか」と疑いを向けたほどだったという。
このときジョンは初めて、どもる事に対してではなく、流暢に喋ることを恥じている自分に気付きショックを受けたと語っている。
 
 
== ジャズピアニスト時代<ref name="a"/> ==
ジョンは、子供のころから[[吃音]]を克服しようと努力してきたが、それは叶わず、彼はコミュニケーションの手段を[[言葉]]以外に探さなければならなかった。
 
14歳の頃から[[ジャズ]]に慣れ親しみ、[[ジョン・コルトレーン]]、[[チャーリー・パーカー]]から音楽的影響を受け、彼は[[ピアノ]]を弾き始めた。
[[ピアノ]]をコミュニケーションの手段として用いたのである。
 
当初は南カルフォニア周辺のジャズクラブで[[ピアノ]]の演奏をするジャズピアニストとして活動していた。彼は後に雑誌のインタビューで「あの頃は、殆ど誰とも話せなかった。そんな僕にコミュニケーションの手段を与えてくれたのは[[ピアノ]]だった。それで僕はホテルやカフェのジャズ・バンドで[[ピアノ]]を弾いていたんだ。でも僕は、しゃべることが怖かったのでピアノの後ろに隠れるように演奏していた。僕が口を開けたらきっと変に思われるだろうと考えていた。すごく恥ずかしくて内気だった。」 と当時を回想している。しかし、その後自身の[[吃音]]が曲を盛り上げるのに素晴らしい効果を発揮している事に気付くことになる。1984年の初頭、彼は[[スキャット]]を取り入れた歌唱法で拍手喝采を受け、これが後の自信に繋がった。「[[スキャット]]する事で吃音から自由になれたんだ。」と彼は語っている。
ジョンは[[ピアノ]]をコミュニケーションの手段として用いたのである。
 
当初は南カルフォニア周辺のジャズクラブで[[ピアノ]]の演奏をするジャズピアニストとして活動していた。
 
当初は南カルフォニア周辺のジャズクラブで[[ピアノ]]の演奏をするジャズピアニストとして活動していた。彼は後に雑誌のインタビューで「あの頃は、殆ど誰とも話せなかった。そんな僕にコミュニケーションの手段を与えてくれたのは[[ピアノ]]だった。それで僕はホテルやカフェのジャズ・バンドで[[ピアノ]]を弾いていたんだ。でも僕は、しゃべることが怖かったのでピアノの後ろに隠れるように演奏していた。僕が口を開けたらきっと変に思われるだろうと考えていた。すごく恥ずかしくて内気だった。」 と当時を回想している。しかし、その後自身の[[吃音]]が曲を盛り上げるのに素晴らしい効果を発揮している事に気付くことになる。1984年の初頭、彼は[[スキャット]]を取り入れた歌唱法で拍手喝采を受け、これが後の自信に繋がった。「[[スキャット]]する事で吃音から自由になれたんだ。」と彼は語っている。
 
しかし、その後自身の[[吃音]]が曲を盛り上げるのに素晴らしい効果を発揮している事に気付くことになる。
 
1984年の初頭、彼は「意味の無い言葉ならどもっても問題が無いのではないか」と考え[[スキャット]]を取り入れた歌唱法を演奏に盛り込むようになった。
 
その歌唱法は拍手喝采を受け、これが後の自信に繋がったという。
 
後に「[[スキャット]]する事で吃音から自由になれたんだ。」と彼は語っている。
 
[[アル・ジャロウ]]、[[ジョー・ファレル]]、[[リッキー・リー・ジョーンズ]]等のアーティストと競演した経験も持つ。
 
== メジャーデビュー<ref name="b">1stアルバムScatman's worldの解説より</ref> ==
しかし、折からの[[不況]]も手伝い、次第に貧しくなってしまったジョンは、妻ジュディを伴い1990年に仕事を求めて[[ベルリン]]へ移住。
 
そしてベルリンのホテルでエージェント、マンフィールド・ツェーリンガーと出会い、週1000ドルの仕事をすることになった。
 
その後、妻ジュディはホテルのロビーでスキャットソングが数曲入った[[カセットテープ]]を彼に渡した。
 
彼は帰りの車中で、そのテープから流れてくる今までに無い斬新なサウンドに驚き、すぐに車中からジョンとジュディに電話をし、ある提案をする。
それはジョンの[[スキャット]]を[[テクノ]]あるいは[[ヒップ・ホップ]]と融合させてみてはどうか、というものだった。
 
ジョン自身はその案に懐疑的であったが、
ジョン自身はその案に懐疑的であったが、同じアイデアを持ちかけられた[[BMG]]はこれを受理した。
 
しかしジョンは曲を聴いた人々に「単にどもっているだけ」と受け止められる事を内心、非常に恐れていた。
 
悩むジョンに対し妻ジュディは、「あなた自身の『そのこと』を、 曲の中で直接伝えればいいじゃない」と助言したのだった。
 
こうしてインゴ・カイズとトニー・カターニャのプロデュースにより、 デビューシングル[[Scatman (Ski Ba Bop Ba Dop Bop)]]の収録が始まった。
 
レコーディングには6時間もの時間を費やした。
 
この曲は「吃音に悩む子供達が逆境を乗り越えるため、元気を与えよう」というものであった。
当初、このシングルの勢いはさほどでもなかったが、
徐々に売り上げを伸ばしはじめ、
最終的には殆どの国のチャートでトップを飾り、
世界中で約600万枚もの売り上げを記録するに至った。
そして数週間に渡って全英トップ10に留まり続け、彼の名は一躍有名となったのである。
 
== 日本での活躍 ==
日本では[[1995年]]、『[[Scatman (Ski Ba Bop Ba Dop Bop)]]』や『Su Su Su Superキレイ』([[カネボウ化粧品]]のCMソング)の大[[ヒット曲|ヒット]]でブレイク。日本国内でもアルバム売上が250万枚<ref>[http://web.archive.org/web/20011205161513/www.zakzak.co.jp/geino/n_December99/nws4803.html スキャットマン・ジョン氏死去 57歳、グリコ・プッチンプリンのCM登場]、ZAKZAK、1999年12月7日。</ref>の[[ミリオンセラー]]を記録し、一躍時の人となった。

[[グリコ乳業]]のプッチンプリンと[[カネボウ化粧品]]の[[コマーシャルメッセージ|テレビCM]]にも出演。

また、『[[Scatman (Ski Ba Bop Ba Dop Bop)]]』は[[加藤茶]]が『加トちゃんのスキャットマン』、[[ウルトラマン]]が『スキャットウルトラマン』というタイトルで[[パロディ]]をしている。
 
アメリカよりも日本での楽曲の売上が多かったことから、前述の『Scatman』のヒット以降はプロモーションのために毎年のように来日していた。
 
しかし、上記の事からも解る様に当時の日本でのプロデュースは、彼の真摯な姿勢、深い歌詞などを真剣に広めようとしていたとは言い難い物であった(ありていに言えば「ネタキャラ」扱いだった)。
 
(ありていに言えば「ネタキャラ」扱いだった)。
『[[Scatman (Ski Ba Bop Ba Dop Bop)]]』は[[吃音]]の問題を歌っているのだが(歌詞にも[[吃音]]という単語が多く出る)、[[吃音]]の社会的な認知には繋がらなかった。
 
音楽活動以外では、吃音者団体との交流を深め、彼らを支援するためのスキャットマン基金を設立した。また[[1996年]]には世界の吃音者に関して著しい功績を与えたとして、アニー・グレン賞を受賞。日本の吃音者団体である[[言友会|全国言友会連絡協議会]]とも深い交流があり、1996年の「[[日本ゴールドディスク大賞]]」の賞金を同団体に寄付、さらに同団体の全国大会にビデオ出演なども行っていた。
音楽活動以外では、吃音者団体との交流を深め、彼らを支援するためのスキャットマン基金を設立した。
 
また[[1996年]]には世界の吃音者に関して著しい功績を与えたとして、アニー・グレン賞を受賞。
 
音楽活動以外では、吃音者団体との交流を深め、彼らを支援するためのスキャットマン基金を設立した。また[[1996年]]には世界の吃音者に関して著しい功績を与えたとして、アニー・グレン賞を受賞。日本の吃音者団体である[[言友会|全国言友会連絡協議会]]とも深い交流があり、1996年の「[[日本ゴールドディスク大賞]]」の賞金を同団体に寄付、さらに同団体の全国大会にビデオ出演なども行っていた。
 
== 晩年 ==
1999年、彼は3枚目のアルバムにして最後のアルバム『[[Take your Time]]』を発売。

1998年から喉頭癌を患っていたため、このアルバムの殆どを女性ボーカルが歌い、彼自身が書いた歌詞も『Dream again』のみ。他のアルバムと大きく曲調が異なるのもそのためである。
 
[[1999年]][[12月3日]]に[[ロサンゼルス]]の自宅で肺癌のため死去。57歳。
 
== その後 ==
インターネットを通して、彼の歌詞や曲の完成度の高さへの再評価が進んでおり、今も尚、[[吃音者]]を含めて多くの人々に勇気を与えている。
 
[[youtube]]では今も尚1時間に数件書き込みがあり、彼の[[リミックス]]曲も多く見られる。
 
2009年にドイツのDJ[[Mark'Oh]]が『[[Scatman (Ski Ba Bop Ba Dop Bop)]]』を[[リミックス]]した楽曲『SCATMAN』発表し、[[PV]]の最後には「In Loving Memory of Scatman John(私の記憶の中にスキャットマン・ジョンは生き続ける)」というテロップが出る。
 
日本では、[[ラマーズP]]らによる[[リミックス]]『スキャットマン(ぴーぱっぱぱらっぽっぴっぽー)』が2010年4月21日に発売された。
 
因みに[[ラマーズP]]により製作された同曲のPVでは、デフォルメされた[[スキャットマン]]と[[Mark'Oh]]と[[ラマーズP]]が出演している。