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'''蓮乗'''(れんじょう、[[文安]]3年([[1446年]])- [[永正]]元年[[2月21日 (旧暦)|2月21日]]([[1504年]][[3月7日]]))は、[[室町時代]]中期から[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]にかけての[[浄土真宗]]の僧である。[[真宗大谷派井波別院瑞泉寺|瑞泉寺]]・[[本泉寺]]兼住。[[本願寺]]第8世[[法主]][[蓮如]]の次男で、母は[[伊勢貞房]]の娘[[如了]]。幼名は光養、諱は兼鎮。妻は大叔父に当たる[[如乗]]の娘。子に[[蓮悟]]室。
 
幼い頃、本願寺は衰退期であったために[[京都]][[南禅寺]]に[[喝食]]として出された。15歳となった[[寛正]]元年[[1月26日_(旧暦)|1月26日]]([[1460年]][[2月18日]])、[[加賀国|加賀]]二俣房(後の本泉寺)の住持であった蓮如の叔父・如乗(実名宣祐)が死亡したため、その娘を娶って後継者になる。如乗はかつては本願寺の本寺である[[青蓮院]]の僧であったが、門主の義円と張り合っていたため、義円が[[還俗]]して[[室町幕府]]第6代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]となると、追われる身となって各地を流浪した末に[[越中国|越中]]瑞泉寺を経て加賀に落ち着いたのであった。後に如乗は兄・[[存如]]死後の家督争いで庶長子の蓮如の才能を見込んで反対派を押さえ込んで後継者に擁立した事があり、如乗の死後にその未亡人[[勝如尼]]の要請で本泉寺の寺号を与えるとともに蓮乗を派遣したのである。
 
[[文明_(日本)|文明]]3年([[1471年]])、[[延暦寺]]の圧力を逃れて[[北陸]]に布教の旅に出た父・蓮如は[[越前国|越前]][[吉崎御坊]]と本泉寺を足がかりに布教に努めた。ところが、文明6年([[1474年]])、後の[[加賀一向一揆]]のきっかけとなる[[富樫氏]]の内紛に巻き込まれ、翌年蓮如は吉崎を退去、蓮乗も本泉寺を追われて本願寺の末寺となっていた瑞泉寺に退いた。更に文明13年([[1481年]])には今度は越中で門徒の弾圧が行われた事を機に[[越中一向一揆]]が発生して[[礪波郡|砺波郡]]が門徒の支配下に入った。
 
だが、蓮乗は越中退去の頃にあった[[落馬]]からの回復が思わしくなく、異母弟の蓮悟に娘を娶わせて後継者にする。[[長享]]元年([[1487年]])には再興した本泉寺に復帰するが、病状は悪化して[[明応]]8年([[1499年]])の蓮如危篤の際にも駆けつける事が出来なかったという。その5年後に59歳で病死した。本泉寺は蓮悟が、瑞泉寺は義弟の[[蓮欽]](勝如尼の甥、妹了如の夫)がそれぞれ継いだ
 
== 関連項目 ==