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[[1969年]]、スミスの「A Group Called Smith」でエンジニアとしてデビュー。その後、[[ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ]]や[[リンゴ・スター]]等のプロデュースやエンジニアリングを手掛けていたが、シュネーの名が大きく知られるようになったのは[[1975年]]に発表された[[:en:Thelma Houston|テルマ・ヒューストン]]の「[[:en:I've Got the Music in Me (album)|I've Got the Music in Me]]」である。その後、[[ミッシェル・ポルナレフ]]、[[TOTO (バンド)|TOTO]]、[[ボズ・スキャッグス]]、[[スティーリー・ダン]]、[[ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース]]、[[シカゴ (バンド)|シカゴ]]、[[オリビア・ニュートン・ジョン]]、[[ホイットニー・ヒューストン]]、など多数の大物アーティストの音楽作品にてプロデューサー、エンジニアとして活躍している。
[[日本]]では、[[オフコース]]、[[小田和正]]のレコーディング・エンジニアとして知られている。「[[We are]]」から「[[as close as possible]]」までのオフコースのアルバムおよび小田の多くのアルバムの制作にかかわっている。小田とは同じ1947年生まれで同い年ということもあり、音楽の枠を超えて深い親交がある。
[[1981年]]、[[ノース・ハリウッド]]に[[シュネー・スタジオ]]を設立。極めて優秀なレコーディング設備で知られており、[[ドン・ヘンリー]]、[[アニタ・ベイカー]]、[[アーロン・ネヴィル]]、[[シェール]]、[[ナタリー・コール]]、[[テディ・ペンダーグラス]]など多数のアーティストのレコーディングに使われている。小田和正も初のソロアルバム「[[K.ODA]]」から「[[MY HOME TOWN]]」まではシュネー・スタジオをレコーディングの拠点としていた。
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