「リンドン・ジョンソン」の版間の差分

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[[File:Webb-Kennedy-Johnson-Gilruth-S62-5628.jpg|right|thumb|250px|[[NASA]]で演説を行うケネディ(檀上)とジョンソン]]
[[File:Lbj tho.jpg|thumb|right|250px|南ベトナムのグエン・ゴク・ト副大統領顧問と]]
ジョンソンの上院における成功は、民主党大統領候補指名へと結びついた。[[1956年]]のテキサス州での民主党全国大会でジョンソンは「秘蔵」候補者であった。[[1960年]]に民主党大会で彼は409票を得たが、大統領候補の指名は[[マサチューセッツ州]]の上院議員、[[ジョン・F・ケネディ]]に行われた。1960年の終わりにケネディは副大統領候補にジョンソンを指名した。1960年11月にケネディ=ジョンソンは小差で[[リチャード・ニクソン]]およびヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアを打ち破った。しかしこの選挙の際に、ケネディの父親が、関係の深い[[マフィア]]に票集めを依頼するなどの大規模な不正を行ったことが報告されている
 
1960年11月にケネディ=ジョンソンは小差で[[リチャード・ニクソン]]およびヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアを打ち破った。しかしこの選挙の際に、ケネディの父親が、関係の深い[[マフィア]]に票集めを依頼するなどの大規模な不正を行ったことや、ケネディ本人も義弟の[[ピーター・ローフォード]]と、その親友の[[フランク・シナトラ]]を通じて、マフィアの[[サム・ジアンカーナ]]に選挙協力を依頼していたことが報告されている。
大統領就任宣誓の際ケネディは、大統領雇用機会均等委員会を率いるように、人種差別問題に関心の深いジョンソンを任命した。同委員会でジョンソンは黒人及び他の少数人種と共に働いた。[[冷戦]]下で[[キューバ危機]]やベルリン危機などの東側諸国との対立、さらに[[ベトナム]]情勢の悪化が進む中、副大統領としてジョンソンは更にいくつかの国際的な任務をこなし、それらはジョンソンに国際問題への洞察力を与えた。
 
大統領就任宣誓の際ケネディは、大統領雇用機会均等委員会を率いるように、人種差別問題に関心の深いジョンソンを任命した。同委員会でジョンソンは、自分の側近を白人のみでまとめたケネディとは異なり、黒人及び他の少数人種と共に働いた。[[冷戦]]下で[[キューバ危機]]やベルリン危機などの東側諸国との対立、さらに[[ベトナム]]情勢の悪化が進む中、副大統領としてジョンソンは更にいくつかの国際的な任務をこなし、それらはジョンソンに国際問題への洞察力を与えた。
 
ベトナム情勢の悪化が進む中でケネディ政権は、アメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、ケネディはジョンソンと[[ロバート・マクナマラ]][[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]を[[1961年]]にベトナムに派遣し情勢視察に当たらせた。ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で、「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」として迅速な支援を訴え<ref>『外交』ヘンリー・キッシンジャー著 1996年 日本経済新聞社』</ref>、同じくマクナマラ国防長官も、「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる定量的なデータが示している」と報告し<ref>『ランド世界を支配した研究所』アレックス・アベラ著 2008年 文藝春秋</ref>、ケネディ大統領の決定にお墨付きを与えた。