「梁師都」の版間の差分

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のちに突厥の内部が分裂すると、[[太宗 (唐)|李世民]]は使者を送って師都の帰順をうながしたが、師都は聞き入れなかった。唐の夏州長史の劉旻や司馬の劉蘭成が師都を攻撃した。師都の配下は離反し、糧道は絶たれて城中は飢えた。師都の部将の辛獠兒・李正宝・馮端らが師都を捕らえて降ろうとしたが、失敗して、李正宝のみが単身唐に帰順した。
 
[[628年]]、唐の[[柴紹]]・[[薛万均]]の軍が頡利可汗の援軍を撃破し、師都の城下に進軍すると、叔父の子の梁洛仁が師都を斬って唐に降った。梁洛仁は右驍衛将軍に抜擢され、朔方郡公に封ぜられた。朔方郡は唐に編入されて夏州と改められた。
 
== 伝記資料 ==