「占守島の戦い」の版間の差分

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== 背景 ==
占守島は千島列島のほぼ最北端を占める島で、北東は[[占守海峡|千島海峡]](ロシア名「第1クリル海峡」)を挟んで[[カムチャツカ半島]][[ロパートカ岬|ロパトカ岬]]に面している。南にはパラムシル海峡(ロシア名「第2クリル海峡」)を挟んで[[幌筵島]]がある。面積は230[[平方キロメートル]]で、海抜200[[メートル]]くらいの緩やかな丘陵が続き、沼地と草原で覆われている。[[オホーツク海]]と[[太平洋]]に囲まれ、夏季でも[[摂氏]]15度くらいで濃霧が覆い、冬季はマイナス15度の極寒の上に猛吹雪に襲われることが多い。
[[画像:Kuriles Shumshu.PNG|thumb|280px|占守島の地図]]
1945年2月の[[ヤルタ会談]]で結ばれた秘密協定では、[[ソビエト連邦|ソ連]](ソ連)が[[大日本帝国|日本]]との戦争に参戦すること、その場合は戦後、[[緯度|北緯]][[50度線]]以南の[[樺太]]南部(南樺太)などをソ連に返還し、千島列島については引き渡すことが決められていた。
もっとも、8月15日にアメリカの[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が、ソ連の[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]首相に送った日本軍の降伏受け入れ分担に関する通知では、千島列島についてソ連の分担地域とは記されていなかった<ref>中山117頁。</ref>。そのため、ソ連側は千島列島及び[[北海道]]北東部([[釧路市|釧路]]・[[留萌市|留萌]]を結んだ直線以北)をソ連担当地区とすることを求め、アメリカも17日付の回答で千島列島については同意をした<ref>中山200頁。ただし、北海道については拒否した。</ref>。
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スターリンは、北海道の半分を領有する権利は[[シベリア出兵]]の報復であると主張し、北海道の東部を実力で奪取する足がかりとして、極めて短い期間で千島列島・樺太を攻略しようとした。-->
18日午後には、国端崎の拠点を確保し、戦車第11連隊と歩兵第73旅団主力が四嶺山の東南に、歩兵第74旅団の一部がその左翼及び後方に展開し、日本軍がソ連軍を殲滅できる有利な態勢となった。昼ごろに第5方面軍司令官から、戦闘停止・自衛戦闘移行の命令があったため、第91師団はそれに従い、18日16時をもって積極戦闘を停止することとした。しかし、実際には戦闘は続いた。夜までには、幌筵島の第74旅団も主力の占守島転進を終えた。ソ連軍は霧の晴れ間に航空機を飛ばして海上輸送の攻撃を行ったが、阻止するには至らなかった。
 
18日16時、ソ連軍上陸部隊(狙撃連隊2個と海軍歩兵大隊)は、日本軍に対して攻撃を仕掛け、艦隊とロパトカ岬からの砲撃も手伝い、幅4Km4km、深さ5~6Km5~6kmにわたって橋頭堡を確保した。すでに反撃行動を停止していた日本軍は、無用の損害を避けるため後退した<ref>中山214頁。</ref>。ソ連軍航空部隊は間欠的に夜間爆撃を行った。ソ連軍の重砲・自動車など重量のある貨物の荷降ろしが完了したのは、翌日に日本側沿岸拠点に停戦命令が届き、その砲撃が無くなってからだった。
 
=== 停戦交渉 ===
* [[ソ連対日参戦]]
* [[占守島]]
* [[千島列島]]
* [[樺太の戦い (1945年)]]
 
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