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== 内政と軍政 ==
[[1135年]]に尚書右僕射・中書門下平章事・知枢密院事・都督諸路軍馬などの重職を兼任する。洞庭の賊を征服し、諸将の会議をおこして侵略された国土の恢復を期し、高宗には『中興備覧』41篇を献じた。[[1136年]]には[[韓世忠]]・[[劉光世]]・
[[1139年]]に資政殿学士に復帰して知福州となり、[[1142年]]に和国公に任命されたが、上疏して金への和平に傾く国策について痛論し、宰相・[[秦檜]]の怒りに触れた。左遷され、提挙江州太平興国宮となる。[[1155年]]、秦檜が亡くなると観文殿学士・判洪州に復帰したが、秦檜の時代に武備が衰えたことを論じて辞職させられた。
[[1161年]]に金帝・亮が侵入すると、判建康府・行宮留守となり、張子顔を派遣して、金軍を海州に破った。[[1163年]]に枢密使・都督建康府を兼ね、[[李顯忠]]に靈壁を、[[宏淵]]に虹県を攻めさせ軍を督促したが宿州で破れ、「特進」に位が下って江淮宣撫使となる。宰相・[[湯思退]]の和平論を斥け、尚書右僕射・中書門下平治省・枢密史となり国政を動かした。江淮におもむき要害の地に築城し、武器を精鋭にし忠義の士を募って金との決戦に備えていたが、湯思退らにより「無用の戦争を起こして、国庫を浪費した」という誹謗を加えたために、官を辞した。その後も上疏して金への和議が誤っていることを説き、[[孝宗 (宋)|孝宗]]には学問に努め賢人に親しむよう訴えた。孝宗は張
== 学問 ==
張
*『紹興奏議』10巻
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