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== 元禄赤穂事件 ==
元禄14年([[1701年]])3月14日には分家の[[赤穂藩]]主[[浅野長矩]]が[[吉良義央]]に刃傷に及んで改易切腹となった。この後、綱長は広島浅野家への連座を恐れて用人[[井上正信]]らを赤穂藩に派遣して赤穂浅野家筆頭[[家老]][[大石良雄]]に「穏便に開城を」と迫った。開城後も赤穂浅野家遺臣らによる吉良家への討ち入りを止めさせるべく、足軽頭の[[進藤俊重]]などを派遣して[[進藤俊式]]や[[小山良師]]らを説得して同志の盟約から抜けさせるなど、一党の切り崩しを図ったが、結局、翌年12月15日に[[元禄赤穂事件|吉良上野介邸討ち入り]]が発生。その後大石良雄をはじめとする吉良邸に討ちいった[[赤穂義士]]47士が英雄化するに及んで、浅野本家は手のひらを返し、浅野家の宣伝のためにも良雄の遺児[[大石良武]]を1500石で召抱えるに至った。
 
== 関連項目 ==