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=== 戦後 ===
現在の日本SFに連なる流れは、戦後、[[進駐軍]]の兵士の読んでいた[[ペーパーバック]]が古書店に並び、その影響の下に再開された。[[1954年]]に日本初のSF雑誌「[[星雲 (雑誌)|星雲]]」が刊行されたものの創刊一号のみで頓挫。その後、様々なSF叢書・シリーズが出されたがいずれも商業的成功を収めるにはほど遠く、出版界では「SFと西部劇に手を出すとつぶれる」[[ジンクス]]が通念となった。[[1960年]]の前後に、SF同人誌「[[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]]」の創刊、[[早川書房]]の発行する『[[S-Fマガジン]]』の創刊、第1回[[日本SF大会]]の開催が続き、ここにようやく本格的な日本SFが始まる。戦後初の本格的なSF長編が、[[今日泊亜蘭]]の『刈得ざる種』([[1962年]]。のち『光の塔』と改題)である。ただし、1953年のSF長編『鉛の小函』([[丘美丈二郎]])などがあり、『光の塔』以前にSF長編がまったく書かれなかった訳ではない。また、手塚治虫らのSFマンガとアニメ、東宝特撮映画などのビジュアル分野でのSFも小説分野と少なからぬ連携を持ち続けた。早川SFコンテストには東宝が出資しており、1960年代に多くのSF作家はアニメ脚本の仕事を手がけている。
 
『[[S-Fマガジン]]』で募集された[[早川SFコンテスト]]から、[[小松左京]]、[[筒井康隆]]、[[半村良]]、[[光瀬龍]]、[[平井和正]]、[[豊田有恒]]などが次々とデビュー。早川書房が発行する雑誌・書籍以外でも、[[眉村卓]]、[[星新一]]、今日泊亜蘭などがSF作品を発表した。これらの作家は、欧米のSFの影響を受けながらも、それぞれに特徴ある作風で日本独自のSFを展開していった。また平井和正、豊田有恒、[[柴野拓美]]などは、[[SF漫画]]の原作や[[SFアニメ]]の[[脚本]]や[[SF考証]]などを手がけ、小説に留まらない活躍をした。