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| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 = [[トニー賞 演劇主演男優賞|演劇主演男優賞]]<br />[[1947年]]『[[:en:Years Ago|Years Ago]]』<ref>『[[シラノ・ド・ベルジュラック (戯曲)|シラノ・ド・ベルジュラック]]』の[[ホセ・フェラー]]とダブル受賞</ref><br />[[1957年]]『[[:en:Long Day's Journey into Night|Long Day's Journey into Night]]』
| その他の賞 = [[ヴェネツィア国際映画祭]][[ヴェネツィア国際映画祭 男優賞|男優賞]]<br />[[1952年]]『[[セールスマンの死]]』<br />[[ベルリン国際映画祭]][[銀熊賞 (男優賞)]]<br />[[1960年]]『[[風の遺産]]』
| 備考 =
}}
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しかし、常に与えられた役柄に不満を抱き、その事から一時は映画会社を渡り歩く異端児としての日々が続く。[[1934年]]にパラマウントの再契約を拒否、フォックスに移籍し、[[1937年]]のセルズニック・プロの『[[スタア誕生 (1937年の映画)|スタア誕生]]』で落ち目になったかつての人気俳優ノーマン・メイン役を好演、アカデミー主演男優賞にノミネートされる。[[1936年]]には1本12万5000ドルという高額ギャラ・ベスト5に入るなど、この頃に人気はピークになる。[[1938年]]にパラマウントに戻るが、この頃撮影所への不満が爆発。妻で女優の[[フローレンス・エルドリッジ]]と共に[[ブロードウェイ]]の舞台に出るが、一週間で打ち切りという失敗に終わる。さすがにハリウッドに戻るが、一度ハリウッドから出て行った者は余計者扱いされ、独立スタジオぐらいしか呼び声がかからなかった。[[1939年]]にはまたブロードウェイへ走り、舞台に精力的に出演する。この間に映画はギャラを下げて何作かに出演、そして[[1944年]]と[[1945年]]には完全に映画から離れる。まさしく『スタア誕生』のノーマンの如く、この頃にキャリアが低迷し、後続の[[ゲーリー・クーパー]]や[[スペンサー・トレイシー]]に抜かれてしまう。
 
[[1946年]]に『我等の生涯の最良の年』で中年の復員兵を演じ、2度目のアカデミー主演男優賞を受賞。単なる二枚目から苦悩に満ちた中年男へと見事に変身し、さらなる人気を呼ぶ。翌年は舞台でも[[ルース・ゴードン]]作の『Years Ago』でこの年に創設された[[トニー賞]]の最優秀男優賞を獲得。[[1951年]]には劇作家[[アーサー・ミラー]]の代表作の映画化『[[セールスマンの死]]』(アカデミー主演男優賞ノミネート)で[[ヴェネツィア国際映画祭]]の男優賞を受賞、[[1955年]]のサスペンス映画『必死の逃亡者』では[[ハンフリー・ボガート]]扮する脱獄犯相手に迫真の名演技を残し、[[1957年]]には再び[[ユージン・オニール]]作の舞台『夜への長い旅路』でトニー賞に輝いた。[[1960年]]には社会派映画の第一人者である[[スタンリー・クレイマー]]監督の意欲作『風の遺産』にライバルのスペンサー・トレイシーと共演、二人とも同じウィスコンシン州出身、2度のアカデミー賞を獲得、そして『ジキル博士とハイド氏』で主役を演じていたことなど彼らには共通点も多く、実際、二人は私生活でも仲が良かったという。
 
政治的にはリベラルで、[[1949年]]では[[非米活動委員会]](HUAC)のカリフォルニア支局でブラック・リストに載せられた。1923年にエリザベス・ベイカーと結婚するが、のちに離婚。1927年に結婚したフローレンスとは映画に共演作も多くおしどり俳優夫婦として知られた。
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** 1946年 主演男優賞受賞 『我等の生涯の最良の年』
** 1951年 主演男優賞ノミネート 『セールスマンの死』
* ヴェネツィア国際映画祭
** 1932年 男優賞受賞 『ジキル博士とハイド氏』
** 1952年 男優賞受賞 『セールスマンの死』