「ヨハン・ゲオルク・ハーマン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
2行目:
'''ヨハン・ゲオルク・ハーマン'''('''Johann Georg Hamann''', [[1730年]][[8月27日]] - [[1788年]][[6月21日]])は、[[ドイツ]]の[[哲学者]]・[[文学者]]。
 
[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]出身(ドイツ本国からすればかなり北方である)であることと、その独特で難解な文体から、「北方の博士」(あるいは「北方の魔術師」, ''Magus in Norden'')の異名を持つ。[[合理主義]]・[[啓蒙思想]]に反対し、人間の根元能力である感性・信仰の哲学を主張し、同時代で同郷の知友、哲学者[[イマヌエル・カント|カント]]を批判、また影響をあたえた重要な人物である。同じ[[東プロイセン]]出身である文学者・[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー|ヘルダー]]を見出しことでも有名である
[[合理主義]]・[[啓蒙思想]]に反対し、人間の根元能力である感性・信仰の哲学を主張し、同時代で同郷の知友、哲学者[[イマヌエル・カント|カント]]を批判、また影響をあたえた重要な人物である。同じ[[東プロイセン]]出身である文学者・[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー|ヘルダー]]を見出しことでも有名である。
 
==生涯==
25 ⟶ 24行目:
1759年にハーマンは、ベーレンスの姉のカタリーナに求婚するが、ベーレンスはこれを拒否し、不快感を示す。また、回心後毎日神に祈りを捧げ、懺悔しているハーマンを見て、商人の精神を根付かせようとしたベーレンスはさらに困惑する。結局破局に終わり、ベーレンス商会を辞めて、郷里であるケーニヒスベルクへと帰った。しかし心配したベーレンスはハーマンを有用な商人へと再び戻すため、友人でもある哲学者カントに協力を呼びかけ、ハーマンを説得させようと、ベーレンスもリガからケーニヒスベルクと急いだ。ベーレンスとカントはかつてハーマン自身も称賛していた有用な商人に戻そうと説得したが、焼け石に水であった。カントらの忠告には敬意を示すものの、ただハーマン自身は、キリスト者にとっては神への祈りこそが仕事であるという。これは、当時のプロシアを支配していた[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]による啓蒙専制君主による国家支配に対する抗議であるとカントへ語っている上、自身の特異な考えも自覚しているようで、一概に無職者に甘んじたいということでもなかったと言われている。このような特異なハーマン自身の思想を綴ったのが、代表作でもある「ソクラテス回想録」である。
 
{{節stub}}
…続く
 
=== 晩年 ===
{{節stub}}
 
…続く
 
== 外部リンク ==
42 ⟶ 40行目:
[[Category:1788年没]]
[[Category:18世紀の哲学者]]
[[Category:ケーニヒスベルク出身の人物]]
[[Category:バルト・ドイツ人]]
 
[[ca:Johann Georg Hamann]]