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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 101III-Zschaeckel-130-05, Russland, Fahrzeuge der SS-Division "Das Reich".jpg|thumb|[[1941年]]撮影]]
'''第2SS装甲師団 ダス・ライヒ'''(だいにSSそうこうしだん―、''2. SS-Panzer-Division "Das Reich"'')は、[[武装親衛隊]]の38個ある[[師団]]のひとつ。よく訓練されたエリート部隊で、[[第二次世界大戦]]の主要な戦闘で大きな役割を果たした。部隊名のダス・ライヒは祖国あるいは国家を意味する。下記の変遷を経て最終的にSS第2装甲師団 ダス・ライヒに発展した。
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 101III-Zschaeckel-206-34, Schlacht um Kursk, Panzer VI (Tiger I).jpg|thumb|[[ティーガーI|ティーガー]]とダスライヒ]]
== 創設・ポーランド戦・フランス戦 ==
ポーランド戦には親衛隊特務部隊は一つとしてまとまった形ではなく、いくつかの陸軍部隊に分散されて最初の戦火を経験した。ポーランド戦が終了した[[1939年]]10月10日、ようやく[[親衛隊特務部隊]]は一つにまとめられ、SS-VT 師団(SS特務師団)が設立された。その構成はSS連隊ドイッチュラント(''SS-Standarte Deutschland'')、SS連隊ゲルマニア(''SS-Standarte Germania'')、SS連隊デア・フューラー(''SS-Standarte Der Führer'')、通信大隊、偵察大隊である。
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== ユーゴスラビア占領 ==
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 101III-Zschaeckel-130-05, Russland, Fahrzeuge der SS-Division "Das Reich".jpg|thumb|[[1941年]]撮影]]
 
1941年3月26日、枢軸国の一員であるユーゴスラビアに反独クーデターにより親独政権が倒れた。4月6日、ドイツ軍は[[ユーゴスラビア侵攻|ユーゴスラビアへ侵入]]した。SS師団ライヒは、ハンガリーよりユーゴスラビアの首都[[ベオグラード]]へ進軍、注目すべき戦果として、ベオグラードを占領した。
 
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ベオグラード占領後、師団は[[独ソ戦|ソビエト侵攻作戦]]の一端を担うために[[ポーランド]]へ移動した。
 
== [[バルバロッサ作戦|ソビエト侵攻]] ==
ソビエト侵攻の際、師団は[[中央軍集団]]の一員として、[[スモレンスク]]近傍の[[ヤルニヤ]]の戦い([[Battle of Yelnya]])や、モスクワ攻略作戦である[[モスクワの戦い|タイフーン作戦]]に参加した。[[1941年]]11月ドイツ軍の最高進出点である、ソビエトの首都まで数マイルの地点まで迫った。ソビエトの首都を視野に納める地点まで前進した時、天候の悪化と大きな損失とソビエトの冬季反攻により師団は押し戻された。多大な損失を被った後、師団は、前線から引き抜かれ、フランスへ送られた。師団の一部は東部戦線に残され、[[戦闘団|カンプフグルッペ]]・オステンドルフ (KG Ostendorff) の名前で呼ばれた。オステンドルフは[[1942年]]6月に師団の本体と合流した。1942年11月、師団の一部は、トゥーロンで、フランス艦隊の自沈を防ぐ試みに参加した。その後、師団は、装甲擲弾兵師団へ格上げされ、'''SS装甲擲弾兵師団ダス・ライヒ'''と改名された。
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 101III-Zschaeckel-206-3534, Schlacht um Kursk, Panzer VI (Tiger I).jpg|thumb|クルスクのSS第2いにおける車連隊“ダスライヒ”第8中隊の[[ティーガーI|ティーガー]]戦車]]
 
[[1943年]]の初め、ダス・ライヒは[[ハルキウ|ハリコフ]]の正面の崩壊の危機にある戦区の補強に[[東部戦線]]に戻された。ハリコフの再占領後、ダス・ライヒは、他の師団とともに、[[クルスクの戦い]]に参加した。ダス・ライヒは、突出部の南側の攻撃を担い40マイル前進したが、作戦が中止されベルゴロドに後退した。その後、ミウス河、ハリコフ、キエフと転戦した。10月に'''第2SS装甲師団ダス・ライヒ'''と改称。