「ヴワディスワフ・オドニツ」の版間の差分

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== 生涯 ==
1206年、ヴワディスワフは叔父で後見人でもあった[[ポーランド君主一覧|ポーランド大公]][[ヴワディスワフ3世 (ポーランド大公)|ヴワディスワフ3世]]細足公と紛争状態になった。叔父である大公がオドニツの世襲領地である[[カリシュ]]公国]]を[[シロンスク公国・ピャスト家|シロンスク公家]]に譲ろうとしたためである。細足公を失脚させようとするオドニツの行動は、[[ヴィエルコポルスカ]]の一部の貴族と、細足公を[[アナテマ|呪詛]]していたグニェズノ大司教ヘンリク・キェトリチュに支持されていたが、結局失敗に終わった。オドニツはシロンスクの[[ヘンリク1世]]髭公の宮廷に亡命し、1207年にはカリシュ公の地位を取り戻して、これを1217年まで保持していた。
 
1210年、[[ボジコヴァ (ウッチ県)|ボジコヴァ]]において、オドニツ、ヘンリク髭公および[[マゾフシェ公]][[コンラト1世 (マゾフシェ公)|コンラト1世]]の3人は、俗人法廷への召喚を免除される特権を含む、1180年に[[ウェンチツァ]]でポーランド教会に与えられた諸特権を再確認している。
 
1218年にオドニツは再び公国を追い出され、妻の兄弟であるクダニスク公[[シフィエントペウク2世]]の下に避難した。シフィエントペウク2世の援助でオドニツは[[ヴィエルコポルスカ]]を征服し、1229年にはその全域を支配下に収めた。1227年、[[ゴンサヴァ]]で開かれたポーランド諸公会議のさい、[[レシェク1世]]白公が暗殺され、シロンスクのヘンリク髭公が負傷した事件において、オドニツは陰で糸を引いていた。1231年、ヘンリク髭公はヴワディスワフ3世細足公をヴィエルコポルスカ公に復位させるためオドニツを攻めたが、オドニツはヘンリクの軍勢を押し返した。
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{{DEFAULTSORT:うわていすわふ おとにつ}}
[[Category:ヴィエルコポルスカ・ピャスト家]]
[[Category:ヴィエルコポルスカ公]]
[[Category:1190年代生]]
[[Category:1239年没]]