「クリスチャン5世 (デンマーク王)」の版間の差分

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[[Image:Christian V of Denmark.jpg|thumb|クリスチャン5世]]
'''クリスチャン5世'''('''Chriatian V'''、[[1646年]][[4月15日]] - [[1699年]][[8月25日]])は、[[デンマーク]]と[[ノルウェー]]の王(在位:[[1670年]] - [[1699年]])。[[フレデリク3世 (デンマーク王)|フレゼリク3世]]と[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公]]女[[ゾフィー・アマーリエ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク|ゾフィー・アマーリエ]]の長子として[[フレンスボー城]]で誕生した。[[1667年]][[5月14日]]、[[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル方伯]][[ヴィルヘルム6世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム6世]]の娘[[シャルロッテ・アマーリエ・フォン・ヘッセン=カッセル|シャルロッテ・アマーリエ]]とニューケビング(Nykøbing)で結婚し、1670年[[2月9日]]に王位に就いた。[[イギリス]]女王[[アン (イギリス女王)|アン]]の[[王配]][[ジョージ (カンバーランド公)|ヨウエン]]は弟、[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]]兼イギリス王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]は母方の従弟に当たる。
 
== 治世生涯 ==
[[画像:Christian V of Denmark titulyarnik.jpg|left|180px|thumb|17世紀に[[ロシア]]で描かれた肖像画]]
[[画像:Christian den 5.jpg|left|180px|thumb|クリスチャン5世像]]
クリスチャン5世は勇敢で愛想よい人物であり、その故に市民の信望を集めていたと一般に考えられている。しかしそのイメージは[[スコーネ戦争]]において[[スコーネ]]地方の奪還に失敗したことで傷つけられてしまった。この戦争はデンマークに何ももたらさなかったばかりでなく、その経済力に大きな悪影響を与えたのである。<ref name="EB">"Christian V." (2007). In ''Encyclopædia Britannica''. Retrieved January 9, 2007, from Encyclopædia Britannica Online.</ref>
 
彼が市民の人気を集めた理由のひとつには、デンマークの一般市民が国家機関で働くことを可能にしたこともあると考えられている。しかし、貴族層の力を削ごうとする彼の試みには、父王の目指した[[絶対王政]]主義の継承という側面もあった。<ref name="EB"/><ref>Jespersen, Knud J.V. [http://denmark.dk/portal/page?_pageid=374,477938&_dad=portal&_schema=PORTAL#544758 The Introduction of Absolutism]. Gyldendal Leksikon, quoted by The Ministry of Foreign Affairs of Denmark, on Denmark's official web site.</ref>貴族の地位を持たない人々に政府の役職を開放するために、クリスチャン5世は[[カウント]](伯爵)と[[バロン (称号)|バロン]]の爵位を新しく設けた。このような径路で登用された一般市民には、1670年に王によってグリッフェンフェルト伯爵の称号を与えられ、1674年に高等顧問官となった[[ペダー・グリッフェンフェルト|ペダー・シューマッハー]]がいる。<ref name="EB"/>
 
グリッフェンフェルトは有能な政治家で、[[フランス王国|フランス]]と同盟関係にある[[スウェーデン]]を攻撃することでデンマークがどれほど危険な状態に自らを置くことになるかについて王よりもよく分かっていた。グリッフェンフェルトの予測した通り、講和条件を決定したのはフランスであり、スコーネ戦争では[[1675年]]から79[[1679]]の対スウェーデンの海上戦で勝利したにも拘わらず、[[スカンディヴィア半島]]の国境線を変更するというデンマークの当初の願いをかなえることはできなかった。この戦争は政治的にも経済的にもデンマークにもたらすところはわずかであった。経済的打撃は大きく、そしてもっとも有能な助言者も、もはやクリスチャン5世の側にはいなかった。グリッフェンフェルトは[[1676年]]に敵対派の工作により売国奴として失脚させられ、残りの生涯を牢中で過ごすこととなったのである。<ref name="Nielsen"/>
1679年のスコーネ戦争の講和条約[[フォンテーヌブロー]]条約は、スウェーデンの同盟国フランスから押し付けられたものであった。デンマークはこの戦争でスウェーデン領土の一部を占領していたにも関わらず、フランスの軍事的圧力に屈し、領土を返還せざるを得ず、不満が募った。同様にフランスに主導権を握られてしまったスウェーデンもまた、反フランス感情が高まった。戦後、両国はこうした不満や感情の元で政策を転換し、フォンテーヌブロー条約に則った[[ルンド条約]]を新たに締結した。この[[条約]]でクリスチャン5世の妹[[ウルリカ・エレオノーラ・アヴ・ダンマルク|ウルリカ・エレオノーラ]]がスウェーデン王[[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]と婚約し、またスウェーデンと同盟を結ぶ事となった。
 
1679年のスコーネ戦争の講和条約[[フォンテーヌブロー]]条約は、スウェーデンの同盟国フランスから押し付けられたものであった。デンマークはこの戦争でスウェーデン領土の一部を占領していたにも関わらず、フランスの軍事的圧力に屈し、領土を返還せざるを得ず、不満が募った。同様にフランスに主導権を握られてしまったスウェーデンもまた、反フランス感情が高まった。戦後、両国はこうした不満や感情の元で政策を転換し、フォンテーヌブロー条約に則った[[ルンド条約]]を新たに締結した。この[[条約]]でクリスチャン5世の妹[[ウルリカ・エレオノーラ・アヴ・ダンマルク|ウルリカ・エレオノーラ]]がスウェーデン王[[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]と婚約し、またスウェーデンと同盟を結ぶ事となった。
クリスチャン5世は[[1683年]]に、デンマーク初の法典 ''Danske Lov'' を発布した。<ref>Jespersen, Knud J.V. [http://denmark.dk/portal/page?_pageid=374,477938&_dad=portal&_schema=PORTAL#544760 Denmark as a Modern Bureaucracy]. Gyldendal Leksikon, quoted by The Ministry of Foreign Affairs of Denmark, on Denmark's official web site.</ref>[[1687年]]には同様の ''Norske Lov'' をノルウェーで発布している。また[[1688年]]には土地登記制度を導入し、税制の改革をはかった。王自身には科学的知識や興味はなかったが、天文学者[[オーレ・レーマー]]の活躍により、その治世下にデンマークは科学の黄金時代を迎えた。
 
クリスチャン5世は[[1683年]]に、デンマーク初の法典 ''Danske Lov'' を発布した。<ref>Jespersen, Knud J.V. [http://denmark.dk/portal/page?_pageid=374,477938&_dad=portal&_schema=PORTAL#544760 Denmark as a Modern Bureaucracy]. Gyldendal Leksikon, quoted by The Ministry of Foreign Affairs of Denmark, on Denmark's official web site.</ref>[[1687年]]には同様の ''Norske Lov'' をノルウェーで発布している。また[[1688年]]には土地登記制度を導入し、税制の改革をはかった。王自身には科学的知識や興味はなかったが、天文学者[[オーレ・レ神聖ローマ帝国]]で[[ザクセン=ラウエンブルク]]公領を巡る紛争が勃発、[[1693年]]の活躍より[[ハンブルク]]で和議を締結その治クリスチャン5下にデは伯父の[[リューネブルク侯領|リューネブルク侯]][[ゲオルク・ヴィルヘルム (ブラウシュヴァイク=リュネブルは科学公)|ゲオルク・ヴィルヘルム]]のザクセン=ラウエンブルク公領黄金時代領有迎え認めた。
== 家族 ==
クリスチャン5世には王妃[[シャルロッテ・アマーリエ・フォン・ヘッセン=カッセル|シャルロッテ・アマーリエ]]との間に8人、愛人との間に6人の子供がいた。16歳の愛人アメリア・モス(1654年 - 1719年)を公然と宮廷に引き入れ、自らの妃を侮辱することもした。アメリア・モスはクリスチャン5世の家庭教師ポール・モスの娘であったが、[[1677年]][[12月31日]]には彼女を伯爵夫人にさえした。
 
スウェーデンから一歩も出たことがなく、ドイツ語とスウェーデン語しか話さないために外交使節が訪れた時に直接会話することができず、知性的ではないと見なされがちであったカール11世<ref name="Upton">Upton, Anthony F. (1998). ''Charles XI and Swedish Absolutism, 1660-1697''. Cambridge University Press, 1998. ISBN 0521573904.</ref>と似て、クリスチャン5世も教育がなく、顧問官たちに依存していると同時代資料では見なされていることが多い。王自身もこのようなうわさを打ち消す方策を何も取らなかった。その回想録には「狩猟、情交、戦争、海事」が主な関心事であると記されている<ref name="Nielsen">Nielsen, Kay Søren (1999). [http://www.thm.dk/publ/ksn/ksn1_1.htm ''Christian V - Konge og sportsmand'']. The Royal Danish Arsenal Museum, Net Publications, 1999.</ref>
スコーネ戦争後、妹[[ウルリカ・エレオノーラ・アヴ・ダンマルク|ウルリカ・エレオノーラ]]がスウェーデン王[[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]に嫁ぐ。カールの母[[ヘトヴィヒ・エレオノーラ]]は[[ホルシュタイン=ゴットルプ家]]出身であった。このような姻戚関係にも拘わらず、1689年には亡命中のホルシュタイン=ゴットルプ公[[クリスチャン・アルブレクト (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公)|クリスティアン・アルブレヒト]]の後ろ盾を得たカール11世がデンマークに対して危うく戦争を仕掛けるなど、緊張状態が生じた(ゴットルプ公領からクリスティアン・アルブレヒトを追放した事が原因で、クリスチャン5世は、カール11世のみならず、[[神聖ローマ皇帝]]からも批難される事となったが、クリスチャン5世がクリスティアン・アルブレヒトに領国を返還した事でこの危険は回避された)。<ref name="Upton"/>
 
[[1699年]]、クリスチャン5世は猟銃による事故の後遺症がもとで死去し、ロスキレ大聖堂に埋葬された。<ref name="Nielsen"/>
スウェーデンから一歩も出たことがなく、ドイツ語とスウェーデン語しか話さないために外交使節が訪れた時に直接会話することができず、知性的ではないと見なされがちであったカール11世<ref name="Upton">Upton, Anthony F. (1998). ''Charles XI and Swedish Absolutism, 1660-1697''. Cambridge University Press, 1998. ISBN 0521573904.</ref>と似て、クリスチャン5世も教育がなく、顧問官たちに依存していると同時代資料では見なされていることが多い。王自身もこのようなうわさを打ち消す方策を何も取らなかった。その回想録には「狩猟、情交、戦争、海事」が主な関心事であると記されている<ref name="Nielsen">Nielsen, Kay Søren (1999). [http://www.thm.dk/publ/ksn/ksn1_1.htm ''Christian V - Konge og sportsmand'']. The Royal Danish Arsenal Museum, Net Publications, 1999.</ref>
 
クリスチャン5世には科学的知識や興味はなかったが、天文学者[[オーレ・レーマー]]の活躍により、その治世下にデンマークは科学の黄金時代を迎えた。
 
== 家族 ==
クリスチャン5世には王妃[[シャルロッテ・アマーリエ・フォン・ヘッセン=カッセル|シャルロッテ・アマーリエ]]との間に8人、愛人との間に6人の子供がいた。16歳の愛人アメリア・モス(1654年 - 1719年)を公然と宮廷に引き入れ、自らの妃を侮辱することもした。アメリア・モスはクリスチャン5世の家庭教師ポール・モスの娘であったが、[[1677年]][[12月31日]]には彼女を伯爵夫人にさえした。
 
スコーネ戦争後、妹[[ウルリカ・エレオノーラ・アヴ・ダンマルク|ウルリカ・エレオノーラ]]がスウェーデン王[[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]に嫁ぐ。カール11世の母[[ヘトヴィヒ・エレオノーラ]]は[[ホルシュタイン=ゴットルプ家]]出身であった。このような姻戚関係にも拘わらず、[[1689年]]には亡命中のホルシュタイン=ゴットルプ公[[クリスチャン・アルブレクト (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公)|クリスティアン・アルブレヒト]]の後ろ盾を得たカール11世がデンマークに対して危うく戦争を仕掛けるなど、緊張状態が生じた(ゴットルプ公領からクリスティアン・アルブレヒトを追放した事が原因で、クリスチャン5世はカール11世のみならず、[[神聖ローマ皇帝]]からも批難される事となったが、クリスチャン5世がクリスティアン・アルブレヒトに領国を返還した事でこの危険は回避された)。<ref name="Upton"/>
[[1699年]]、クリスチャン5世は猟銃による事故の後遺症がもとで死去し、ロスキレ大聖堂に埋葬された。<ref name="Nielsen"/>
 
== 脚注 ==