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[[Imageファイル:Zygmunt Wróblewski.PNG|thumb|ジグムント・ヴルブレフスキ]]
[[画像ファイル:Krakow Olszewski Wroblewski plaque.jpg|thumb|ヴルブレフスキとオルシェフスキを記念した刻板]]
'''ジグムント・ヴルブレフスキ'''(Zygmunt Florenty Wróblewski、[[1845年]][[10月28日]] – [[1888年]][[4月16日]])は[[ポーランド]]の化学者、物理学者である。[[低温物理学]]のパイオニアで、1883年に[[カロル・オルシェフスキ]] ([[w:Karol Olszewski|Karol Olszewski]]) と共に酸素、窒素の液化に成功した。
 
当時ロシア領のグロドノ(現在はベラルーシの[[フロドナ]])に生まれた。[[キエフ大学]]で学んだが1863年の1月蜂起に参加して、6年間の亡命生活を送った後、ベルリン、ハイデルベルクで研究し、[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]で学位を得た。[[ストラスブール大学]]の助教授になり、1880年にPolish Academy of Skillsの会員になった。[[ヤギェウォ大学]]の物理学の教授となって、カロル・オルシェフスキと共に気体の液化の研究を行った。1882年に二酸化炭素の[[ハイドレート]]を発見し、1883年3月29日酸素の液化に成功し、同年4月13日に窒素の液化に成功した。
 
1888年水素の実験中に事故で火傷をおい、クラクフの病院で没した。