「クリスチャン6世 (デンマーク王)」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
[[ファイル:Christian 6.jpg|thumb|250px|クリスチャン6世]]
| 人名 = クリスチャン6世
'''クリスチャン6世'''('''Christian VI'''、[[1699年]][[12月10日]] - [[1746年]][[8月6日]])は、[[デンマーク]]および[[ノルウェー]]の国王(在位:[[1730年]] - [[1746年]])。[[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]]と王妃[[ルイーゼ・フォン・メクレンブルク|ルイーセ]]の子。[[ゾフィー・マグダレーネ・フォン・ブランデンブルク=クルムバッハ]]と結婚した。[[フレデリク5世 (デンマーク王)|フレデリク5世]]の父である。
| 各国語表記 = {{lang|da|Christian 6.}}
| 君主号 = デンマーク王<br/>ノルウェー王
| 画像 = Christian 6.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 =
| 在位 = 1730年 - 1746年
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 全名 =
| 出生日 = [[1699年]][[12月10日]]
| 生地 = [[クリスチャンスボー宮殿]]、[[コペンハーゲン]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1699|12|10|1746|8|6}}
| 没地 = [[:en:Hirschholm Palace|ヘアスホルム宮殿]]
| 埋葬日 =  
| 埋葬地 = [[ロスキレ大聖堂]]
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = [[ゾフィー・マグダレーネ・フォン・ブランデンブルク=クルムバッハ]]
| 配偶者2 =
| 配偶者3 =
| 子女 = [[フレデリク5世 (デンマーク王)|フレゼリク5世]]<br/>[[ルイーセ・ア・ダンマーク (1726-1756)|ルイーセ]]
| 王家 = [[オルデンブルク朝|オルデンブルク家]]
| 王朝 =
| 王室歌 =
| 父親 = [[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]]
| 母親 = [[ルイーゼ・フォン・メクレンブルク|ルイーゼ・ツー・メクレンブルク]]
}}
'''クリスチャン6世'''('''Christian VI'''、[[1699年]][[12月10日]] - [[1746年]][[8月6日]])は、[[デンマーク]]および[[ノルウェー]]の国王(在位:[[1730年]] - [[1746年]])。
 
== 生涯 ==
[[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]]と最初の王妃[[ルイーゼ・フォン・メクレンブルク|ルイーセ]]の間の息子として生まれ、1730年に王位を継いだ。
 
後世ではクリスチャン6世は宗教的な統治者として知られている。彼は[[敬虔主義]]に深く帰依し、その治世の間、臣民たちにその教えを広めようとした。この宗教的圧力は彼の個人的魅力の欠如とともに彼をデンマークの[[絶対王政|絶対主義]]の時代で最も人気のない王にしている。後世の歴史家たちはこの像を変えようとしてきた。すなわち彼らは、クリスチャン6世は言われているような偏狭な人物ではなく、勤番で綿密な官僚であるということを強調したのだ。しかし、否定的な印象はその後を続いた。
 
敬虔主義と(adscription)に加えて、クリスチャン6世と「活動の建築」は結びついていて、彼はもしかしたら18世紀に最も偉大な建設家だったかもしれない。彼の王妃もまた特筆すべき努力をした。彼の業績のなかでは[[クリスチャンスボー城]]([[1732年]]から翌年造営。[[1794年]]焼失。再建)、[[シェラン島]]北部の[[ヒルスホルム宮殿]](現在の[[ヒルスホルム市]]庁。[[1737年]]から[[1739年]]に造営。[[1812年]]破壊)、そしてEremitage(1734年から1736年に造営。現存している)がある。それらの豪華な建造物は、権力を誇示する目的で建設されたが、臣民に対しては経済的負担となった。
 
[[ファイル:Christian 6VI buste.jpg|thumb|250pxleft|160px|クリスチャン6世の胸像]]
彼の外交政策は平和的なものであり、デンマークは厳格な中立を維持した。貿易と商業は進歩の時代であり、幾つかの銀行と企業が設立された。クリスチャン6世の晩年、[[スウェーデン]]では、[[ヘッセン王朝]]の断絶が明らかになると、平和理に自家[[オルデンブルク朝|オレンボー家]]を推戴したが、[[ロシア帝国]]の強い意向で、オレンボー家の分家の1つ[[ホルシュタイン=ゴットルプ家]]が成り代わった。
 
[[1746年]]に亡くなると、クリスチャン6世は[[ロスキルデ大聖堂]]に葬られた。[[ヨハネス・ヴィートヴェルト]]がデザインと制作した[[新古典主義]]の記念碑は寡婦となった王妃がかかわっていた。「悲しみ」、「名声」という女性の彫刻を含む 大理石の記念碑は[[1768年]]に完成したが、[[1777年]]までロスキルデ大聖堂に収められなかった。これはデンマークで最初の[[新古典主義]]の石棺であり、新古典主義のはじまりだと考えられる。
== 子女 ==
1721年8月7日、[[バイロイト侯領|ブランデンブルク=バイロイト辺境伯家]]の傍系であるブランデンブルク=バイロイト=クルムバッハ辺境伯[[クリスティアン・ハインリヒ・フォン・ブランデンブルク=クルムバッハ|クリスティアン・ハインリヒ]]の娘[[ゾフィー・マグダレーネ・フォン・ブランデンブルク=クルムバッハ|ゾフィー・マグダレーネ]]と結婚した。夫妻の間には3人の子女が生まれ、うち2人が成人した。
*[[フレデリク5世 (デンマーク王)|フレゼリク5世]](1723年 - 1766年) デンマーク王
*ルイーセ(1724年)
*[[ルイーセ・ア・ダンマーク (1726-1756)|ルイーセ]](1726年 - 1756年) 1749年、ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公[[エルンスト・フリードリヒ3世 (ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公)|エルンスト・フリードリヒ3世]]と結婚
 
{{Commons|Christian IV of Denmark}}