「日本労農党」の版間の差分

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[[1926年]][[12月]]、[[日本労働総同盟]]と[[日本農民組合]]の中間派が結成。書記長[[三輪寿壮]]、幹部に[[麻生久]]・[[浅沼稲次郎]]・[[山名義鶴]]ら。
 
[[社会民衆党]]の結成方針が1926年11月に明らかにされた数日後、この動きに反発した総同盟の麻生久らが[[全日本農民組合連合会|日本農民組合]]の反幹部派とともに日本労農党の立ち上げを決定。これによって麻生はじめ複数のメンバーと構成組合が総同盟から除名処分を受け、ほかにも脱退する組合が出る事態に発展して、総同盟の第二次分裂を招いた。
 
同年12月には日本労農党の結成によって総同盟を除名されたほかの組合とともに[[日本労働組合同盟]]を組織することを決めた。この日本労働組合同盟と[[全日本農民組合]](全日農)を基盤に、対華不干渉・電灯料金減額などの現実的政策を掲げ、[[1928年]]第1回[[普通選挙]]([[第16回衆議院議員総選挙|第16回総選挙]])で2議席を得たが成果は挙がらなかった。[[1928年]][[12月]]諸派7党を合同して[[日本大衆党]]へ発展し、[[1930年]][[7月]][[全国大衆党]]、[[1931年]][[7月]][[労農党 (新労農党)|新労農党]]と合同して[[全国労農大衆党]]となった。
 
== 参考文献 ==