「ミハイル・ロモノーソフ」の版間の差分

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== 文学者としての側面 ==
ロモノーソフはいくつもの[[頌歌]]を書き、またロシア語や詩法などの研究にも大きな業績を残した。
ドイツ留学中に書いた「ロシア詩法についての書簡」ではロシア詩のアクセントについての基礎をまとめ、実際にその理論にもとづいて「トルコの要塞チン占領に寄せを讃えて」という詩を書いている。<!--その新しい文体で作った20もの[[頌歌]]を書いており、とりわけ『神の偉大さについての夕べの瞑想』が優れている<ref name=maip>百科事典マイペディア 電子辞書版 (c)2006, 日立システムアンドサービス</ref>。--><!--すまん、ここは分からん。He applied an idiosyncratic theory to his later poems{{ndash}}tender subjects needed words containing the front vowel sounds E, I, YU, whereas things that may cause fear (like "anger", "envy", "pain" and "sorrow") needed words with back vowel sounds O, U, Y. That was a version of what is now called [[音象徴|sound symbolism]].-->
[[1757年]]には「ロシア文法」をはじめとしたロシア初の[[文法|文法書]]を著した。それまでの[[ロシア語]]の文法書はすべて[[古代教会スラヴ語]]についてのものだったのだ。さらに彼は古代教会スラヴ語だけの文章、古代教会スラヴ語とロシア語がまじった文章、ロシア語だけの文章にはそれぞれの固有の文体(「三文体論」)があると主張し、それらの関係をととのえた。さらに[[1760年]]、ロシア史の本を出版する。また、未完に終わっているが、[[アエネイス]]や[[ウェルギリウス]]を意識した[[ピョートル1世]]を称える著作にも取り組んだ。
<!-- <ref name=brita>ブリタニカ国際大百科事典 小項目電子辞書版 (c)2006, Britannica Japan Co.,Ltd.</ref> -->