「マティアス・フラキウス・イリリクス」の版間の差分

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Dr jimmy (会話 | 投稿記録)
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== 経歴 ==
[[イストリア半島]]のアルボナ(現在の[[クロアチア]]領[[ラビン (クロアチア)|ラビン]])の出身。[[ヴェツィア]]で人文主義教育を受けた後、17歳で[[フランチェスコ会]]に入って[[修道士]]になることを志し、伯父である修道院長[[バルド・ルペティーノ]](Baldo Lupetina)に相談する。だが、秘かに[[マルティン・ルター]]の考えに共鳴していた伯父は[[ドイツ]]にて神学を学ぶように勧めた(後にルペティーノはルター派の信仰を告白して処刑されることになる)。彼は[[バーゼル]]・[[テュービンゲン]]を経て[[ヴィッテンベルク]]に至り、ルターやその盟友である[[フィリップ・メランヒトン]]の面識を得る。その頃のフラキウスは[[抑うつ症]]に苦しんでいたが、ルターの[[義認論]]に接することでこれを克服し、1539年19歳の時に正式にルター派に改宗した。24歳の時には[[ヴィッテンベルク大学]]の[[ヘブライ語]]教授に抜擢された。
 
ところが、ルターの死後の1548年に成立した[[アウクスブルク仮信条協定]]や[[ライプツィヒ仮信条協定]]を巡り、これを推進しようとするメランヒトンを[[カトリック]]に対して妥協的でルターの教えから逸脱していると批判したためにヴィッテンベルク大学にいられなくなり、[[マクデブルク]]に逃れて印刷所の管理人となった。マクデブルクには仮信条協定に反発する人々が集まり、後に「純正ルター派」と称される反対派の一大拠点となり、フラキウスはその指導者として仰がれるようになった。