「ジェームズ・マクニール・ホイッスラー」の版間の差分
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数年後の1859年にはロンドンにもアトリエを構え,ロセッティ兄妹と知り合った。以後、ロンドンとパリを往復しつつ制作活動を続け、1860年からはロンドンの[[ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ|ロイヤル・アカデミー]]に出品している。ホイッスラーは1862年にロンドンの展覧会に出品し、翌1863年にはパリの「[[落選展]]」に出品された、当時恋人だった[[ジョアンナ・ヒファーナン]]をモデルにした『白の少女』(ホワイト・ガール)で一躍注目を集めた。この作品では、モデルの少女の白いドレス、手にしている白い花、背景の白いカーテン、足下の白い敷物など、さまざまな白の色調が対比され、人物の内面描写よりも色彩のハーモニーを表現すること自体が絵画の目的となっている。この頃から彼の作品には「[[交響曲|シンフォニー]]」「[[夜想曲|ノクターン]]」などの音楽用語を用いた題名が付されることが多くなった。
1876年から翌年にかけては、パトロンであった富豪レイランドのロンドンの邸宅の室内装飾を手がけた。壁面に孔雀を大きく描いた食堂の内装は、のちに部屋ごとワシントンDCのフリア・ギャラリーに移されている。
== 作風 ==
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