「山田奉行」の版間の差分

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== 事跡 ==
 
御三家のひとつ[[紀州徳川家]]領と接していることからしばしば係争が発生し、将軍吉宗時代に[[江戸町奉行]]として活躍する[[大岡忠相|大岡越前守忠相]]が務めたこともあり、奉行時代の忠相の働きに感心した[[紀州藩]]主時代の[[徳川吉宗]]が、のちに抜擢したという伝説がある。しかし、諸記録(神都雑事記』『慶光院旧記等)では事実は異なる。
 
*(1)(1) 神領と宮川を挟んで接しているのは[[紀州]][[和歌山]]領ではなく、粟野村・津村や宮川右岸の佐八村(そうちむら)・円座村・神薗村・上野村も[[田丸藩]]田丸領であった。それ故、[[大岡忠相]]の手柄話が起こる訳はない。
*(2)(2)「歴代山田奉行は紀州[[徳川家]]に遠慮していた?」等は全く根も葉もない作り話である事が第八代石川大隅守政次奉行の時、山田奉行支配組頭岡山杢之助重於が紀州領松坂奉行を兼帯されていた事で解る。第八代石川大隅守政次奉行は紀州和歌山領内[[度会郡]]野尻村の百姓二名を内宮禰宜との係争事件で「牛谷牢舎へ入牢」申し付けている。
*(3)(3)田丸藩田丸領佐八(そうち)との境界の確定は第十代桑山丹後守貞政奉行が行って居り、山田奉行での[[大岡政談]]は成り立たない。
 
==関連項目==