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[[畠山氏]]の家督争いをめぐる大和国の諸士にも大きな影響を与える事になる。この争いに筒井順永は[[畠山政久|畠山弥三郎]]に組みしていたが、[[康正]]元年([[1455年]])7月2日に畠山義就軍は筒井城を攻城し、[[成身院光宣]]、筒井順永兄弟は防戦したが緒戦で敗北した。
 
しかし、筒井城そのものは頑強に持ちこたえた。この戦いで大和国に点在する[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]や[[興福寺]]等の寺院は脅え、同年8月10日には門を閉じてしまった。その事が呼び水になったのか、同日[[貝吹山城 (大和国)|貝吹山城]]にいた越智伊予守が出軍して、筒井城の攻囲軍に加わった。この頃箸尾氏、片岡氏は筒井氏の[[与力]]になっていて、[[箸尾城]]、[[片岡城]]を守っていたが、畠山義就、越智伊予守連合軍は圧倒的多数によって、これらの城も攻城した。各所で激戦となったようだが、同年8月19日に筒井城、箸尾城、片岡城は落城した。光宣、順永兄弟は[[福住村 (奈良県)|福住郷]]へ落ち延びていった。
 
その後、[[管領]]細川勝元の仲介によって、畠山義就、越智伊予守連合軍と和睦し、[[長禄]]3年([[1459年]])6月1日に光宣、順永兄弟と[[箸尾宗信]]は帰城することになり、筒井城にいた越智伊予守軍は城を去って行った。{{-}}