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'''唐手道'''
 
#沖縄武術の唐手を基にした[[武道]]「[[空手道]]」(からてどう)のこと。
#琉球王国時代、年代は定かではありませんが約200年以上遡ると現在世界に普及される空手道(1936年制定)の名称の萌芽として手、唐手が見られます。当時武器を使用しない徒手武術を目にすることは少なく、武器術も久米村人(1392年明の皇帝朱元璋が琉球人を教化するため福建人三十六姓を派遣、久米村に定住し代々琉球国府に仕え要職を担う)琉球士族の間では秘密裡に稽古しております。たまたま拳技の一手、二手を垣間見ても伝流、経緯も全く分からず非公開、秘技であり久米村の武人以外では解説されるすべもなく単に武器を使用しないことから「手」と称されていました。空手道の草創期首里人佐久川寛賀(1782~1837年)久米村人の嵩原通事安執(毛國棟)に福建派唐の手の初手を教わったとされている。また北京へ数度上洛(北京の善撲営で彼の地の武術を知る事となる。その後佐久川の武術に尊敬の意味を込めて武士松村宗棍は自分の師匠に「唐手佐久川」と命名、首里士族に伝わり、後に有名を馳せることになりました。この命名により狭義の素手の攻防技が畢竟唐の手であると松村宗棍により史実として顕はれたことによりこの名称が拳術の代名詞として使われ現在も空手道を唐手、唐手術、唐手道として一部の流派、会派で使用されております。
#[[洪懿詳]]が多くの門派を学んで編み出した[[中国武術]]「唐手道」(タンスータオ) ⇒[[唐手道 (中国武術)]]
#唐手道(Tang-Shou-Tao、タンソータオ)の名称は清朝の乾隆時代に遡ります。大陸では中華民国十八年(1929年)蒋介石により中国武術を正式命名「国術」と制定致しました。1960年代台湾において武術名家洪懿祥、洪懿文、洪懿棉、その大弟子許鴻基、第一位李慶祥、摔角の許昭雄、張俊峰第一代門徒陳章慧(順不同)等多くの諸先生協力の元「唐手道」の名称を組織名に定め活動することとなりました。世界の潮流に順応し世界の健身、防身藝術として意味簡明であり将来国際的に発揚するに一目で系統的、段階的に伝統武術であることが分かり国術に比べてもより正統的な名称であり正名といたしました。現在、易宗唐手道と神龍唐手道二通りの呼び名が有ります。中国の名刹嵩山少林寺の石碑に世界唐手道協會の名称が見られます。大陸、台湾共に時代は違ってもこの「唐手道」の呼び名が伝統的拳術の総称として採用されていることは正名と言っていいでしょう。唐手道の技藝内容は形意拳が主となり、八卦掌、太極拳、少林各拳、摔、拿、點、打、養気など諸特點を包含し内外功を綜合した全能武術を「唐手道」と呼んでおります。1973年臺北市體育會唐手道委員會設立創始人許鴻基、1977年世界唐手道協会、アメリカロサンゼルスにて成立する。1984年許鴻基他界された後は実弟許昭雄が中心となり公的機関臺北市體育會唐手道委員會を継承。李慶祥と共に台湾、日本を統括指導する。2005年臺北市體育會唐手道委員會主任委員蘇文滄就任、唐手道総教練李慶祥、唐手道日本国総本部顧問林武雄、国際唐手道委員會理事長吉﨑元章。
 
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