「朝比奈泰朝」の版間の差分

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'''朝比奈 泰朝'''(あさひな やすとも、[[1538年]]([[天文 (元号)|天文]]7年)- 没年不詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[今川氏]]の重臣。[[朝比奈泰能]]の子。左京亮、備中守を称す。[[掛川城]]城主。
 
[[今川氏真]]と同い年であることから、氏真と仲が良かったといわれている。父の死後に[[家督]]を負い備中守となると、[[1560年]]([[永禄]]3年)には、[[今川義元]]の[[尾張国|尾張]]侵攻で[[井伊直盛]]とともに織田家の[[鷲津砦]]を攻略。窮地にあった[[大高城]]を救ったが、後続本隊の義元が[[桶狭間の戦い]]で討死。やむなく放棄し、撤退した。
 
義元の横死後、[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]の今川領内では動揺が拡大、離反する諸将もある中で、氏真を支える姿勢を貫いた。そんな中、謀反の疑いのある[[井伊直親]]を氏真の命により成敗している。
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[[1568年]]([[永禄]]11年)、[[武田信玄]]が同盟を一方的に破棄して[[駿河国|駿河]]に侵攻。それによって氏真が駿河を追われると、泰朝は氏真を[[掛川城]]に迎えて保護している。このとき、今川氏の重臣の大半は氏真を見限って[[武田氏]]や[[徳川氏]]に寝返った者が多かったが、この泰朝だけは今川氏に最後まで忠義を尽くしている。
 
遠江に逃れた氏真を掛川城に迎えても、同年末には西方から[[徳川家康]]軍が攻め寄せて来た。[[浜松城|曳馬城]]を陥落させるなど順調に遠州を制圧する家康は、掛川城さえも攻囲するが、五ケ月にも亘って奮戦し、落城を防ぎきった。しかし、援軍の見込めぬ中での戦いには限りがあり、開城要求を受け入れた氏真掛川城を開城して[[伊豆国|伊豆]]に退去することとなった。この時も氏真を供奉し、伊豆へ退いている。その伊豆から、氏真とともに[[上杉謙信]]の家臣・山吉氏に援助を頼んだ。のち、氏真は家康を頼り、[[浜松城]]に出向くものの、これには従わなかった。
 
その後の行方の詳細は不明であるが、[[徳川氏]]の重臣・[[酒井忠次]]の家臣として仕えた説が有力である。